雨の中で
- 長政
- 「ふう……もう少しで終わりそうだな。……ん?」
- 空気を入れ換えようと障子に手を掛けると、音もなく雨が降っている。
- 家臣
- 「気付いていなかったのですか?」
- 長政
- 「ああ。政務に集中していたからな」
- 家臣の言葉に、目許を押さえながら長政は頷いた。
- 家臣
- 「このところ働きすぎではありませんか? ここは大丈夫ですから、少し休んでください」
- 朝から晩まで政務に没頭している長政を、家臣は気遣う。
- 長政
- 「いや、これだけは済ませる……おっと……」
- 筆に墨を付けすぎたのか、紙の上に垂らしてしまった。
最初から書き直しだと、長政はがっくりと肩を落とす。 - 家臣
- 「やはり、お疲れのようですね。あとは私がやっておきますので、長政様は休んでください」
- 長政
- 「すまない……」
- 家臣に残りの仕事を任せて、長政は部屋を出た。
とはいえ、このまま自室に戻って横になるのは、まだ家臣達が仕事をしているのに申し訳ない。 - 長政
- 「そういえば、この頃遠乗りをしていなかったな。小雨だし、久しぶりに出かけるか」
- 気分転換をかねて、外へ出かけようと長政は馬屋へ向かった。
- × × ×
- 同じ頃、甲斐国――。
しとしとと雨が降る中、信玄を先頭に昌幸と幸村が堤の様子を見に来ていた。 - 昌幸
- 「信玄様、この堤は崩れる心配はなさそうです」
- 信玄
- 「そ、そうだな」
- 幸村
- 「なあ、信玄。堤の見回りくらいおれ達に任せればいいだろ」
- 国主自ら見回りをする必要はない、と
唇を尖らせている幸村の肩に手を置き、昌幸は苦笑を漏らす。 - 昌幸
- 「いいじゃないか。信玄様は領内の安全を確認したいのだ」
- 幸村
- 「でも……」
- 昌幸
- 「いいんだ」
- 念押しする昌幸に、幸村は何か言いたそうに口を動かしていたが、やがて黙り込んでしまう。
- 昌幸
- 「信玄様、そろそろ城へ戻りましょう」
- 信玄
- 「ふ、二人は先に戻ってくれ。わしは、もう少し見てから帰る」
- 幸村
- 「えー、まだ回るところあるのかよ? 仕方ないなぁ……ぐうっ」
- 文句を言いながらもついて行こうとする幸村の首根っこを掴み、昌幸は口を開いた。
- 昌幸
- 「承知いたしました。信玄様、いくら雨足が弱まっているとはいえ、
長く外にいると体を冷やしてしまいます。なるべく早くお戻りください」 - 信玄
- 「わ、分かった。それじゃあ……」
- 歩き出した信玄を笑顔で見送り、昌幸は幸村を連れて館へ戻ろうと反対側の道を進む。
- 幸村
- 「父上、信玄ひとりで大丈夫かな?」
- 昌幸
- 「信玄様は、一人になりたいのだ」
- 幸村
- 「……なんで一人になりたいんだ?」
- 背後を顧みた幸村は、ぽつりと呟いた。
- 幸村
- 「……信玄?」
- 既に姿は見えなくなっていたが、彼は何処へ向かったのだろう。
- × × ×
- 尾張国・清洲城――。
信長の部屋で、胡座をかき日ノ本の地図とにらめっこしていた勝家は、
尾張の隣にある美濃国をまじまじと見つめている。 - 勝家
- 「森部の戦いに勝ったとはいえ、斎藤龍興を倒したわけじゃねえ。
それに敵は墨俣の北方……十四条に軍勢を集めているらしい」 - 信長
- 「問題ない。全て叩き潰す」
- 勝家
- 「だが、いまだに形成は劣勢だぞ?」
- 信長
- 「ふん、この程度で俺が手詰まると思うのか?
早急に美濃を制し、いずれは上洛を目指す。そのためにも、お前がいるんだろう?」 - 勝家
- 「はっ、そこまで言われちゃあ、何が何でも勝利をもたらさないとな」
- 自身の膝を叩き、勝家はにやりと笑う。
- 勝家
- 「……とはいえ、敵に厄介な軍師がいるだろ。奴をどうにかしねえと」
- 信長
- 「竹中半兵衛か」
- 信長は、すっと目を細めた。斎藤家の天才軍師・竹中半兵衛。まだ年若い男だそうだが、
知略は美濃だけでなく尾張までも轟かせている。彼が軍略を練れば、戦は長引くことは必定だ。 - × × ×
- 美濃国・山中――。
雨に濡れるのも気にせず、半兵衛は弓の鍛錬に勤しんでいた。
的に見立てた木の幹には、たくさんの矢が突き刺さっている。
濡れた前髪を、煩わしそうに片手で払ってから矢を番えた。
風を切る音が響き、また新たに矢が的に刺さる。 - 半兵衛
- 「ふう……」
- ゆっくりと息を吐き、半兵衛は弓を下ろした。体はすっかり冷えていたが、苛立ちは収まらない。
こうしてじっとしているだけで、また胸の中がむかむかしてきた。
半兵衛の機嫌が悪いのは主君、斎藤龍興が酒色に溺れ、
政務を疎かにしているからだ。もともと奔放な性格で、父親が退いてから更に拍車がかかった。
道三の頃から斎藤家に仕えてきた半兵衛にとって、龍興のだらしなさは目に余る。
まだ苛立ちが収まらないから、と半兵衛は矢筒に手を伸ばそうとした時、
こちらへ向かってくる者に気付き、手を止めた。
現れたのは同じ斎藤家の家臣だ。自分と同じく、龍興のことを快く思っていない男である。 - 家臣
- 「竹中殿、探したぞ!」
- 半兵衛
- 「何か僕に用ですか?」
- そっけなく返事をする半兵衛に、男は困惑した表情を浮かべた。
- 家臣
- 「龍興様は己の言うことを聞く一部の家臣のみ重宝し、我々の言葉に耳を貸そうとしない。
不満を訴える者が後を絶たないのは知っての通りだろう」 - 半兵衛
- 「それで?」
- 家臣
- 「皆、もう我慢できないと爆発寸前だ。中には謀反を企てている者もいる」
- そこまで考えている者もいるのか、と半兵衛は心の中で呟いた。そう思うのも無理もない。
まともな考えを持つ者ほど、龍興は遠ざけるのだから。 - 家臣
- 「私も彼らと思いは同じだ」
- 半兵衛
- 「なるほど……謀反ですか」
- 僅かに口角を上げ、半兵衛は男に向き直る。
- 半兵衛
- 「これを利用するのも、悪くないですね」
- 家臣
- 「では、竹中殿も……」
- 半兵衛
- 「ええ、龍興様を懲らしめましょう」
- それで改心するのならば上々。反省せずに憤るだけならば見限るだけだ。
半兵衛の不適な笑みを見て、男が唾をごくりと飲み込んだ。
味方になるのは心強いが、何を考えているのか読めないといった表情だ。 - 半兵衛
- 「詳しくは後ほど。行く所があるので、僕はこれで……」
- 男と別れ、半兵衛は森の奥へ向かった。
傘も差さずに弓を射っていたため、着物が体にはりついて気持ち悪い。体温もすっかり奪われ、寒気もした。
しかし、半兵衛は気にせず歩を進める。
雨に濡れて重くなった着物の袖が、半兵衛の背丈ほどある木の枝に引っかかった。
外そうと勢いよく腕を動かしたら、反動で手の甲を切ってしまう。 - 半兵衛
- 「痛っ……」
- 傷口から赤い血が滲みでてきた。雨に混じって薄まった血が流れ落ちた。
- 半兵衛
- 「あ……」
- その血を受けたのは、紫色の桔梗の花だ。
- 半兵衛
- 「……もう夏なのか」
- 桔梗は秋の花だと思われがちだが、梅雨頃から咲き始める。血を受けた花を手折り、再び歩き出した。
しばらくすると雨足は弱くなり、淀んだ灰色の雲から日が差し込んできた。
目的地に到着する頃には、雨も上がり柔らかな光と共に虹が架かっている。 - 半兵衛
- 「虹か……」
- 七色の橋を見つめ、半兵衛はほっと息をついた。
- × × ×
- 長政
- 「美しいな……」
- 見事な曲線を描いている虹を眺めていた長政は、その美しさに目許を綻ばせる。
その手には桔梗の花が握られている。城に戻る途中で見つけたものだ。
それから、城に戻った長政は政務に戻ろうと家臣がいる部屋へ向かった。 - 家臣
- 「おかえりなさいませ、長政様」
- 長政
- 「ああ、ただいま」
- 家臣
- 「おや、桔梗の花ですか?」
- 長政の手にある花を見て、出迎えた家臣は目を瞬かせた。
- 長政
- 「山の中で見つけたんだ。綺麗だろう?」
- 家臣
- 「ええ、とても。何か生けるものを探してきましょう」
- 微笑む長政に頷き、家臣は席を立った。
入れ替わりに長政は腰を下ろし、文机の前に積み上がった書類に目を通す。
気分転換に外の空気を吸えたので、頭はすっきりしている。この調子なら、日が暮れるまでには仕事も終わるだろう。 - × × ×
- 部屋で長いこと次の戦について話し合っていた信長と勝家の耳に、侍女達のはしゃぐ声が聞こえた。
- 信長
- 「……なんだ?」
- 勝家
- 「虹だって騒いでるみてーだな。どれどれ……おっ、雨も上がったみたいだぞ」
- 障子を開け、勝家は空を見上げた。遅れて信長も立ち上がり、外の様子を見る。
雨に濡れた中庭は、光を浴びてきらきらと輝いていた。 - 信長
- 「こんなちっぽけな領土で満足するものか。ここからが天下統一に向けた大一番だ」
- そう呟くと、信長は唇を歪める。勝家も同意し、力強く頷いた。
- 勝家
- 「ああ、これからだ」
- 尾張、美濃だけではない。日ノ本すべてを手に入れる。
それが信長、そして勝家を含めた織田家臣の願いだ。 - 勝家
- 「近いうちに戦が始まるだろう。俺様としちゃあ願ったりだが、信長がいないと姫さんが寂しがるんじゃねぇか?」
- 信長
- 「市か……。出陣前に時間を取る」
- 勝家
- 「そーかよ」
- 信長
- 「そういうお前こそ戦に出れば、あいつをからかえなくなるぞ」
- 勝家
- 「はっ、うるさい姫さんと離れられて清々するぜ」
- そんな話をしていると、侍女達の笑い声の中に市の声が混じっているのに気付く。
彼女も虹を見てはしゃいでいるようだ。
信長と勝家は互いの顔を見合わせ、ふっと笑う。もう少ししたら、市のもとへ向かおう。
きっと満面の笑顔を見せてくれるに違いない。 - × × ×
- 甲斐国では、まだ雨は止んでいなかった。
信玄は目の前にある小さな石が、これ以上濡れないように番傘を差す。
自分の肩が濡れるのも気にせず、信玄はそれを見つめたまま聞こえるのがやっとの声で言葉を紡ぐ。 - 信玄
- 「朧……」
- それは怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の感情なのか……。彼の心情を解する者はいない。
ぽつ、ぽつ……と雨音が小さくなっていく。やがて音は止み、光が差し始めた。 - 信玄
- 「雨が上がったのか……」
- 番傘をたたみ、信玄は空を仰ぐ。雲の割れ目から太陽の光が注いでいるのを見て、目を細めた。
- 幸村
- 「おーい、信玄。どこだー?」
- なかなか帰ってこないのを心配して探しに来たのだろう。信玄は声のする方へ体を向け、歩き出す。
- 信玄
- 「ゆ、幸村―! いま行く!」
- 幸村
- 「早く来いよー!」
- 幸村と合流後、信玄は館へと戻かう。
- × × ×
- ――同じ時、それぞれの場所で過ごす彼らは、やがて一人の姫と出会う。
漆黒の髪と碧い瞳を持つ彼女が彼らを光の先へと導き、
それぞれの運命が動き出す……これはその少し前の話である。
【完】