SPECIAL
【水泡の記憶A】
白い紙に綴られた言葉は、少しずつ擦り切れていく。
黒いインクが滲んで、まるで水の底に沈んでいくように。
(あと何回、読み返せる?)
(あと何回、読み返したら会える?)
胸にぎゅっと抱きしめた手紙がまた擦れていくのもお構いなしに、私は愛しさを募らせる。
たとえこの手紙が色褪せて文字が消えてしまっても、次の手紙が来なくても、私は哀しんだりしない。
あなたと私は、同じ空の下。同じ世界で、同じ想いを抱いて生きている。
それだけで、大丈夫。見上げた星空が、あなたと繋がっているから。
私たちは、離れていても繋がっている。
白い紙に綴られた言葉は、少しずつ擦り切れていく。
黒いインクが滲んで、まるで水の底に沈んでいくように。
(あと何回、読み返せる?)
(あと何回、読み返したら会える?)
胸にぎゅっと抱きしめた手紙がまた擦れていくのもお構いなしに、私は愛しさを募らせる。
たとえこの手紙が色褪せて文字が消えてしまっても、次の手紙が来なくても、私は哀しんだりしない。
あなたと私は、同じ空の下。同じ世界で、同じ想いを抱いて生きている。
それだけで、大丈夫。見上げた星空が、あなたと繋がっているから。
私たちは、離れていても繋がっている。
【水泡の記憶B】
空っぽの箱。
どこまでも高い、真っ白な天井。
鍵の開かない、真っ黒な扉。
俺たちを構成する世界はシンプルだ。
そこに特別な色<心>は必要ない。
『この箱庭の外では、どんな景色が見えるんだろう』
そんな期待など持たないほうがいい。
『この箱庭の外では、誰が待ってるんだろう』
そんな妄想に囚われるのは失敗作だ。
『俺は……代わりの利かない何かに、なれるのかな』
そんな願望など抱いても叶わない。
――生まれたころから脳を支配する声が、俺の心を縛りつけようとする。
「…………嫌だ」
それでも俺は、手を伸ばした。
「俺は……もう、諦めない」
使い捨ての歯車としてではなく、誰かのために生きる人間として。
他には何もいらない。ただ、君と同じ世界を歩きたい。
君への手紙に書いた言葉は、白と黒だけで構成されている。
これじゃ昔と変わらない。相変わらず、俺の世界は単色のまま。
だから、たった一瞬でいい。
愛しい色に彩られた世界でもう一度、君に会いたい。
君の声を、聴きたいんだ。
空っぽの箱。
どこまでも高い、真っ白な天井。
鍵の開かない、真っ黒な扉。
俺たちを構成する世界はシンプルだ。
そこに特別な色<心>は必要ない。
『この箱庭の外では、どんな景色が見えるんだろう』
そんな期待など持たないほうがいい。
『この箱庭の外では、誰が待ってるんだろう』
そんな妄想に囚われるのは失敗作だ。
『俺は……代わりの利かない何かに、なれるのかな』
そんな願望など抱いても叶わない。
――生まれたころから脳を支配する声が、俺の心を縛りつけようとする。
「…………嫌だ」
それでも俺は、手を伸ばした。
「俺は……もう、諦めない」
使い捨ての歯車としてではなく、誰かのために生きる人間として。
他には何もいらない。ただ、君と同じ世界を歩きたい。
君への手紙に書いた言葉は、白と黒だけで構成されている。
これじゃ昔と変わらない。相変わらず、俺の世界は単色のまま。
だから、たった一瞬でいい。
愛しい色に彩られた世界でもう一度、君に会いたい。
君の声を、聴きたいんだ。
【水泡の記憶A】
痺れを切らしたような吐息が背後から聴こえて、背中に視線が突き刺さる。
「……おい、こっち向け」
我ながら、その声には弱い。
いつもだったら反射的に振り返ってしまっていたかもしれない。
「無視か。いい度胸してんな、ポチ」
「ポチじゃありません」
でも、今日は振り返らないと決めていた。
私にも許容範囲ってものがあって、なんでもかんでも言いなりになるのは関係として正しくないことくらいわかっている。
「察してちゃんに付き合ってやるほど暇じゃねえぞ」
「…………」
「言いたいことあるなら、ちゃんと言え」
「笹塚さんだっていつもそうじゃないですか」
「あ?」
「察しろ、言わなくてもわかるだろ、って言葉にしないことのほうが多いです」
「…………」
すぐ返ってくると思った次の言葉は聞こえてこない。思ったより効き目があったのか、それとも呆れてしまったのか。
思わず決心が揺らぎそうになって身体を捩じらせると、突如、ふわりと背中に温かさを感じた。
そのまま背後から彼の腕が回って、柔らかく抱きしめられる。
「笹塚さ――」
「顔、見せろ」
「…………っ」
「お前のむくれてる顔、好きなんだよ」
「……ずるい、です……」
「ちゃんと言葉にしただろ」
「……それは、私の顔が見れないと寂しいってことですか?」
「…………そうかもな」
小さな囁きと共に今度は顎に指がかけられて、強引に振り向かされる。
予想通り、何か訴えようとした唇は彼によって塞がれてしまった。
(本当に……ずるい人)
彼は言葉にするのが嫌なんじゃなくて、言葉にするのが下手なんじゃないだろうか。
短くない付き合いの仲で、少しずつ知った彼の不器用さ。
私だけに向ける拗ねた顔も、時に子供っぽいところも、愛しいと感じてしまうのはもう、仕方ない。
痺れを切らしたような吐息が背後から聴こえて、背中に視線が突き刺さる。
「……おい、こっち向け」
我ながら、その声には弱い。
いつもだったら反射的に振り返ってしまっていたかもしれない。
「無視か。いい度胸してんな、ポチ」
「ポチじゃありません」
でも、今日は振り返らないと決めていた。
私にも許容範囲ってものがあって、なんでもかんでも言いなりになるのは関係として正しくないことくらいわかっている。
「察してちゃんに付き合ってやるほど暇じゃねえぞ」
「…………」
「言いたいことあるなら、ちゃんと言え」
「笹塚さんだっていつもそうじゃないですか」
「あ?」
「察しろ、言わなくてもわかるだろ、って言葉にしないことのほうが多いです」
「…………」
すぐ返ってくると思った次の言葉は聞こえてこない。思ったより効き目があったのか、それとも呆れてしまったのか。
思わず決心が揺らぎそうになって身体を捩じらせると、突如、ふわりと背中に温かさを感じた。
そのまま背後から彼の腕が回って、柔らかく抱きしめられる。
「笹塚さ――」
「顔、見せろ」
「…………っ」
「お前のむくれてる顔、好きなんだよ」
「……ずるい、です……」
「ちゃんと言葉にしただろ」
「……それは、私の顔が見れないと寂しいってことですか?」
「…………そうかもな」
小さな囁きと共に今度は顎に指がかけられて、強引に振り向かされる。
予想通り、何か訴えようとした唇は彼によって塞がれてしまった。
(本当に……ずるい人)
彼は言葉にするのが嫌なんじゃなくて、言葉にするのが下手なんじゃないだろうか。
短くない付き合いの仲で、少しずつ知った彼の不器用さ。
私だけに向ける拗ねた顔も、時に子供っぽいところも、愛しいと感じてしまうのはもう、仕方ない。
【水泡の記憶B】
噛みつくようなキスで唇を塞ぐと、次第にどちらからともなく求め合って、正面から向き合う。
――この顔を見るのが好きでキスしたくなるんだから、お前が悪い。
そう言ったら、こいつはまた怒るんだろう。
「……で?」
「はぁっ……は……あの、ですね。キスで誤魔化すのはやめてください……」
「したくなったから、しただけ」
「もう……わかりました。笹塚さんなりに私の機嫌を直そうとしたってことですよね」
「…………そういうことにしといてやる」
面倒だからと放置することもできたのに、キスで本音を引き出そうとする時点で、まあそのままにしておきたくない気持ちはあるんだろう。
だが、反省するかどうかは別問題だ。なにしろ理由が判明していない。
「で、なんで怒ってたんだよ。靴下裏返しで洗濯機に放り込んだからか?」
「違います。でも、洗濯物は裏返しのまま入れないでください」
「はいはい。じゃ、アレか。お前が嫌がってんのに昨日の夜――」
「違います! ピザを頼んだからです!!!」
「は?」
素で疑問符を返しながら、俺はある種の既視感を覚えていた。
以前もこいつが勝手にむくれて、どんな理由かと思ったらピザを注文しただとかなんとか……。
「お前ピザになんか恨みでもあんの?」
「はい?」
「やけに当たりキツイよな。まさか食いもん相手に嫉妬か?」
「…………そうです」
不可解すぎて軽いジョークのつもりで言えば、真顔で返されて俺はまた虚を突かれた。
「……嫉妬というか。私、今日は笹塚さんの好きなもの作ろうって食材たくさん買って、何時ごろ着きますってメールもしましたよね」
「……あー……」
「なのに扉を開けた瞬間、ピザのいい匂いに包まれた私の気持ちがわかりますか……!!」
もう自棄になっているのか、クッションをぼすぼす殴りながら涙目になっている姿に、自然と苦笑が零れる。
言われてみればその怒りも理解できる。そもそもメールが着た時点でピザは注文済みだったのだが、そんな言い訳をする必要もないだろう。
「腹減って我慢できなかったんだよ。まだ全然余裕あるし、ピザは前菜っつーか、お前のもちゃんと食べるつもりだった」
「空腹は最高の調味料って言葉知ってますか」
「知ってる。けど、空腹じゃなくてもお前のメシは美味いぞ」
「……っ、そんな言葉で騙されませんからね! でもありがとうございます!」
「くっ……ははっ、マジでお前、飽きねえな」
いつの間にか互いの声に宿っていたかすかな緊張感は消えて、俺が笑うと、むくれていた恋人も堪えきれないように笑った。
「……そこまで怒ってたわけじゃないのに、ちょっと意地悪しました。ごめんなさい」
「バーカ、謝んな。言いたいこと溜め込むなっつってんだろ。俺だって完璧なわけじゃねえ」
先回りして謝る素直さに、バカみたいに愛しさが募った。
またその身体を引き寄せると、こめかみにキスを落とす。俺の背中に回った細い指が、ぎゅっと服を握る感覚に片笑んだ。
――出会った頃とは違って、俺はこいつに教わることも多い。
言われなくてもわかることや、言わなきゃわからないことがあっても苛立ちより愛しさが勝る。それは一方通行じゃなく、互いに同じ想いがあるから抱く感情なんだろう。
「じゃ、お前のメシまでもうちょい腹減らすか」
言いながらキスを深く繋いでいくと、眼前の顔がハッと気づいたように焦り始めた。
「ま、待ってください。あの、私はご飯の準備を……」
「空腹は最高の調味料、なんだろ。適度に運動したほうが腹減るよな」
「屁理屈です……っ!!」
抗議の声は聞こえなかったフリをして、俺はまたその唇を塞いだ。
以前よりも、だいぶ言葉にするようになった。
言葉にするのが面倒でもなくなったし、むしろ言いたい時は好きなだけ言ってる。
それでも、やっぱり実力行使のほうが伝わるのだから、仕方ない。
噛みつくようなキスで唇を塞ぐと、次第にどちらからともなく求め合って、正面から向き合う。
――この顔を見るのが好きでキスしたくなるんだから、お前が悪い。
そう言ったら、こいつはまた怒るんだろう。
「……で?」
「はぁっ……は……あの、ですね。キスで誤魔化すのはやめてください……」
「したくなったから、しただけ」
「もう……わかりました。笹塚さんなりに私の機嫌を直そうとしたってことですよね」
「…………そういうことにしといてやる」
面倒だからと放置することもできたのに、キスで本音を引き出そうとする時点で、まあそのままにしておきたくない気持ちはあるんだろう。
だが、反省するかどうかは別問題だ。なにしろ理由が判明していない。
「で、なんで怒ってたんだよ。靴下裏返しで洗濯機に放り込んだからか?」
「違います。でも、洗濯物は裏返しのまま入れないでください」
「はいはい。じゃ、アレか。お前が嫌がってんのに昨日の夜――」
「違います! ピザを頼んだからです!!!」
「は?」
素で疑問符を返しながら、俺はある種の既視感を覚えていた。
以前もこいつが勝手にむくれて、どんな理由かと思ったらピザを注文しただとかなんとか……。
「お前ピザになんか恨みでもあんの?」
「はい?」
「やけに当たりキツイよな。まさか食いもん相手に嫉妬か?」
「…………そうです」
不可解すぎて軽いジョークのつもりで言えば、真顔で返されて俺はまた虚を突かれた。
「……嫉妬というか。私、今日は笹塚さんの好きなもの作ろうって食材たくさん買って、何時ごろ着きますってメールもしましたよね」
「……あー……」
「なのに扉を開けた瞬間、ピザのいい匂いに包まれた私の気持ちがわかりますか……!!」
もう自棄になっているのか、クッションをぼすぼす殴りながら涙目になっている姿に、自然と苦笑が零れる。
言われてみればその怒りも理解できる。そもそもメールが着た時点でピザは注文済みだったのだが、そんな言い訳をする必要もないだろう。
「腹減って我慢できなかったんだよ。まだ全然余裕あるし、ピザは前菜っつーか、お前のもちゃんと食べるつもりだった」
「空腹は最高の調味料って言葉知ってますか」
「知ってる。けど、空腹じゃなくてもお前のメシは美味いぞ」
「……っ、そんな言葉で騙されませんからね! でもありがとうございます!」
「くっ……ははっ、マジでお前、飽きねえな」
いつの間にか互いの声に宿っていたかすかな緊張感は消えて、俺が笑うと、むくれていた恋人も堪えきれないように笑った。
「……そこまで怒ってたわけじゃないのに、ちょっと意地悪しました。ごめんなさい」
「バーカ、謝んな。言いたいこと溜め込むなっつってんだろ。俺だって完璧なわけじゃねえ」
先回りして謝る素直さに、バカみたいに愛しさが募った。
またその身体を引き寄せると、こめかみにキスを落とす。俺の背中に回った細い指が、ぎゅっと服を握る感覚に片笑んだ。
――出会った頃とは違って、俺はこいつに教わることも多い。
言われなくてもわかることや、言わなきゃわからないことがあっても苛立ちより愛しさが勝る。それは一方通行じゃなく、互いに同じ想いがあるから抱く感情なんだろう。
「じゃ、お前のメシまでもうちょい腹減らすか」
言いながらキスを深く繋いでいくと、眼前の顔がハッと気づいたように焦り始めた。
「ま、待ってください。あの、私はご飯の準備を……」
「空腹は最高の調味料、なんだろ。適度に運動したほうが腹減るよな」
「屁理屈です……っ!!」
抗議の声は聞こえなかったフリをして、俺はまたその唇を塞いだ。
以前よりも、だいぶ言葉にするようになった。
言葉にするのが面倒でもなくなったし、むしろ言いたい時は好きなだけ言ってる。
それでも、やっぱり実力行使のほうが伝わるのだから、仕方ない。
【水泡の記憶A】
「あれ、香月は?」
「打ち合わせが長引いてるみたいで。夕飯までには帰るってメール着てましたよ」
「そっか、あいつも頑張ってんなー」
「はい。……でも、楽しいだけじゃないみたいで、やっぱり大変そうです」
テキパキと冷蔵庫に食材を入れていた市香が、わずかに目を伏せる。
その横顔に寂しさのようなものを感じ取って、俺は苦笑した。
仕事で見せる真面目な顔や、俺に見せる屈託のない笑顔とは違う。
弟を心配するときの姉の顔をしたこいつは、どこか儚げで……見ていて少し心配になる時がある。
自分も妹がいるからわかるが、一緒に育った存在の成長は嬉しいだけじゃなくて、複雑なのだ。
「大学生って勉強にバイトに趣味に……いくら時間あっても足りないもんな。今日は無理しなくていいってメールしとくか」
「あ、それしたら香月拗ねちゃいますよ。峰雄さんと夕飯食べるの楽しみにしてたんですから」
「お、マジで? ……ったく、可愛い奴め! んじゃ、香月のためにも気合入れてメシ作るとすっか! 俺も手伝うぜ」
「ふふ、ありがとうございます。さっそく準備しちゃいましょう」
平日の夜。仕事が終わった俺たちは、帰りがてら食材の買い出しをして市香の自宅を訪れていた。
――同じ職場から一緒に帰って、キッチンに並んで料理をして、向かい合って夕飯を囲む。
さすがに毎日じゃないけど、月に何度かはこんな風にゆっくりとした時間を過ごして。
他人にとっては当たり前に見えるこの日常を、俺は未だに奇跡のようだと思う。
「峰雄さん、あとはもう私だけで大丈夫なので、テレビでも見てゆっくりしててください」
「ん、そうか? じゃ、お言葉に甘えて」
「あ、ビール冷えてますけど飲みます?」
「えっ! いいのか!?」
「あと昨日の残りですけど、春菊の胡麻和えもあるので、おつまみにして先に一杯どうぞ」
「うっ……いやいや、お前だって仕事で疲れてんのに、俺だけ先にってのは……」
「峰雄さん今日はお疲れですし、飲みたかったでしょう?」
「だけどよ……」
「それに……なんだか、新婚みたいですよね、こういうの」
「ぐぅっ! し、新婚……!?」
にっこりと笑顔で缶ビールを押しつけて、エプロン姿の市香が軽やかに背を向ける。
(……ほんと、俺いつかバチ当たるんじゃねーかな……)
そんなことを心中で呟きながら、俺はビール片手にテレビを眺めてぼんやりしていた。
バラエティ番組の騒がしさに混じって、市香が包丁を扱う音が聞こえてくる。
鍋の味噌汁がコトコトと小気味いい音を立てて、部屋が家庭の音に包まれる。
(いつか、これが当たり前になる日が……来るのか……?)
仕事の疲れとアルコールが混ざりあって、ふわふわとした浮遊感を覚えた。
――ゆっくりと、世界が廻りだす。でもこれは、疲労と酒のせいだけじゃない。
俺はもう、ここ最近ずっと……幸せすぎて、いつもくるくる舞い踊ってるような心地だ。
「あれ、香月は?」
「打ち合わせが長引いてるみたいで。夕飯までには帰るってメール着てましたよ」
「そっか、あいつも頑張ってんなー」
「はい。……でも、楽しいだけじゃないみたいで、やっぱり大変そうです」
テキパキと冷蔵庫に食材を入れていた市香が、わずかに目を伏せる。
その横顔に寂しさのようなものを感じ取って、俺は苦笑した。
仕事で見せる真面目な顔や、俺に見せる屈託のない笑顔とは違う。
弟を心配するときの姉の顔をしたこいつは、どこか儚げで……見ていて少し心配になる時がある。
自分も妹がいるからわかるが、一緒に育った存在の成長は嬉しいだけじゃなくて、複雑なのだ。
「大学生って勉強にバイトに趣味に……いくら時間あっても足りないもんな。今日は無理しなくていいってメールしとくか」
「あ、それしたら香月拗ねちゃいますよ。峰雄さんと夕飯食べるの楽しみにしてたんですから」
「お、マジで? ……ったく、可愛い奴め! んじゃ、香月のためにも気合入れてメシ作るとすっか! 俺も手伝うぜ」
「ふふ、ありがとうございます。さっそく準備しちゃいましょう」
平日の夜。仕事が終わった俺たちは、帰りがてら食材の買い出しをして市香の自宅を訪れていた。
――同じ職場から一緒に帰って、キッチンに並んで料理をして、向かい合って夕飯を囲む。
さすがに毎日じゃないけど、月に何度かはこんな風にゆっくりとした時間を過ごして。
他人にとっては当たり前に見えるこの日常を、俺は未だに奇跡のようだと思う。
「峰雄さん、あとはもう私だけで大丈夫なので、テレビでも見てゆっくりしててください」
「ん、そうか? じゃ、お言葉に甘えて」
「あ、ビール冷えてますけど飲みます?」
「えっ! いいのか!?」
「あと昨日の残りですけど、春菊の胡麻和えもあるので、おつまみにして先に一杯どうぞ」
「うっ……いやいや、お前だって仕事で疲れてんのに、俺だけ先にってのは……」
「峰雄さん今日はお疲れですし、飲みたかったでしょう?」
「だけどよ……」
「それに……なんだか、新婚みたいですよね、こういうの」
「ぐぅっ! し、新婚……!?」
にっこりと笑顔で缶ビールを押しつけて、エプロン姿の市香が軽やかに背を向ける。
(……ほんと、俺いつかバチ当たるんじゃねーかな……)
そんなことを心中で呟きながら、俺はビール片手にテレビを眺めてぼんやりしていた。
バラエティ番組の騒がしさに混じって、市香が包丁を扱う音が聞こえてくる。
鍋の味噌汁がコトコトと小気味いい音を立てて、部屋が家庭の音に包まれる。
(いつか、これが当たり前になる日が……来るのか……?)
仕事の疲れとアルコールが混ざりあって、ふわふわとした浮遊感を覚えた。
――ゆっくりと、世界が廻りだす。でもこれは、疲労と酒のせいだけじゃない。
俺はもう、ここ最近ずっと……幸せすぎて、いつもくるくる舞い踊ってるような心地だ。
【水泡の記憶B】
お皿に盛った料理をリビングに運ぼうとして、気付く。
峰雄さんが片手にビール缶を持ったまま、テーブルに突っ伏していた。
「……峰雄さん? 大丈夫ですか? 眠くなっちゃいました?」
「んんぅ……だいじょぶ……ぐるぐるするだけ……」
「すきっ腹にビールは良くなかったですかね……気持ち悪くないですか?」
「うん……へへ、むしろ……すげーきもちいい……」
「ごはんできましたよ。香月ももうすぐ着くみたいなので」
舌ったらずに返事をする峰雄さんを微笑ましく見つめてから、テーブルに料理を並べていく。
――ふと、視線を感じて振り返ると、なぜか彼は私をじっと見つめていた。
「……俺さ、お前といると……ぱーになる」
「はい?」
「くるくる……ぱぁ」
「けっこう酔ってますね……?」
「お前もそうだったらいいなー、って思うんだ」
「あの、峰雄さ――」
お水飲んでください、と言おうとしたのに、いきなり腕を引かれて言葉を失ってしまった。
息がかかるほど近くに彼の顔が迫って、どきりと鼓動が跳ねる。
「……なあ。俺と一緒にいると、お前はどんな感じ?」
「どんなって……どうしたんですか、急に」
「俺はさー、ふわふわ浮かれて、楽しくて、でもドキドキで落ち着かなくて」
「同じですよ」
子供のように甘えてくる彼に、私は苦笑を返した。
帰り道から気付いていたけど、たぶん今日は仕事があまり上手くいかなかったのだろう。
疲れた顔をしていたし、声に覇気がなかった。でも、彼は肝心なところで弱音を吐かないから。
「私も、峰雄さんといるといつも楽しくて、ドキドキします。同じです」
「おなじ……そっか! やったー」
どこか物憂げだった彼がパッと笑顔になって、私も自然と笑みが零れる。
警察に復職してから時折、前よりも大人びた目をするようになった彼が、私の前では無邪気な表情を見せてくれることが嬉しかった。
「じゃ、一緒にくるくるしようぜー。浮かれついでに踊っちまおー」
「もう……峰雄さん、ごはん冷めちゃいますよ」
ぎゅっと手を握られて、抱き寄せられて、彼の体温にまた鼓動が速くなる。
普段はこんなに密着したら照れてしまう人なのに、時々大胆になるのはずるいと思う。
でも、私だって本当はもっともっと近くで触れていたいから。
彼が酔っているのをいいことに、そっと目の前の胸に頭を預けた。
――数十秒後、帰宅した香月に呆れ顔を向けられたのは、言うまでもない。
お皿に盛った料理をリビングに運ぼうとして、気付く。
峰雄さんが片手にビール缶を持ったまま、テーブルに突っ伏していた。
「……峰雄さん? 大丈夫ですか? 眠くなっちゃいました?」
「んんぅ……だいじょぶ……ぐるぐるするだけ……」
「すきっ腹にビールは良くなかったですかね……気持ち悪くないですか?」
「うん……へへ、むしろ……すげーきもちいい……」
「ごはんできましたよ。香月ももうすぐ着くみたいなので」
舌ったらずに返事をする峰雄さんを微笑ましく見つめてから、テーブルに料理を並べていく。
――ふと、視線を感じて振り返ると、なぜか彼は私をじっと見つめていた。
「……俺さ、お前といると……ぱーになる」
「はい?」
「くるくる……ぱぁ」
「けっこう酔ってますね……?」
「お前もそうだったらいいなー、って思うんだ」
「あの、峰雄さ――」
お水飲んでください、と言おうとしたのに、いきなり腕を引かれて言葉を失ってしまった。
息がかかるほど近くに彼の顔が迫って、どきりと鼓動が跳ねる。
「……なあ。俺と一緒にいると、お前はどんな感じ?」
「どんなって……どうしたんですか、急に」
「俺はさー、ふわふわ浮かれて、楽しくて、でもドキドキで落ち着かなくて」
「同じですよ」
子供のように甘えてくる彼に、私は苦笑を返した。
帰り道から気付いていたけど、たぶん今日は仕事があまり上手くいかなかったのだろう。
疲れた顔をしていたし、声に覇気がなかった。でも、彼は肝心なところで弱音を吐かないから。
「私も、峰雄さんといるといつも楽しくて、ドキドキします。同じです」
「おなじ……そっか! やったー」
どこか物憂げだった彼がパッと笑顔になって、私も自然と笑みが零れる。
警察に復職してから時折、前よりも大人びた目をするようになった彼が、私の前では無邪気な表情を見せてくれることが嬉しかった。
「じゃ、一緒にくるくるしようぜー。浮かれついでに踊っちまおー」
「もう……峰雄さん、ごはん冷めちゃいますよ」
ぎゅっと手を握られて、抱き寄せられて、彼の体温にまた鼓動が速くなる。
普段はこんなに密着したら照れてしまう人なのに、時々大胆になるのはずるいと思う。
でも、私だって本当はもっともっと近くで触れていたいから。
彼が酔っているのをいいことに、そっと目の前の胸に頭を預けた。
――数十秒後、帰宅した香月に呆れ顔を向けられたのは、言うまでもない。
【水泡の記憶A】
荒い息を吐き出して視線を上げると、熱を孕んだ瞳が見下ろしていた。
背筋がぞくりと粟立つ。今にも捕食されてしまいそうなほど、熱い。
……なのに、なぜか恐怖よりも喜びが思考を満たした。
「……どうしたの? 身体つらい?」
私がじっと見つめ返したのをどう受け取ったのか、今度はその瞳に優しさを灯して、彼が気遣わしげに覗き込んでくる。
声にならない愛しさが溢れて、思わずその頬に指で触れた。するりと撫でてから、はっと正気に戻る。
「いえ……その、シャワー浴びてきますね」
自分でも恥ずかしくなるほど、蕩けた顔を見せてしまっていたと気付いた。
現実に引き戻されて身体を起こそうとすると、彼の手がそれを柔らかく留める。
「ダーメ。もうちょっとイチャイチャしよ……」
「でも……汗を流したいので――んっ」
紡ごうとした言葉はキスで塞がれる。
本当はわかっていた。彼の瞳が、満足なんてしていないことを物語っていたから。
そして、きっと私も見透かされている。口先では冷静さを保ちながら、本当は満たされていないことを。
「……もう終わりですよ」
「えー……」
深いキスから解放されると同時に、制止するように人差し指で彼の唇に触れる。
拗ねた顔を向けられて、ちいさく笑った。
「岡崎さん、明日も早いですよね」
「キミは寝てていいよ? 出るとき鍵かけといてくれれば」
「そういう問題じゃなくて……ちゃんと寝なきゃダメですよ」
「オレの睡眠は良質だから大丈夫なんだけどなあ……しかも今日はキミが一緒だから、ぐっすり眠れるし」
「なら、せっかく私と一緒に眠れるんですから、少しでも長いほうがいいですよね」
「……いじわる」
理屈で本能を覆い隠して、私はにっこりと笑顔を向けた。
これ以上溺れてしまうと、自分の浅ましさを隠し切れなくなってしまうから。
――今さら取り繕ったところで、意味などないこともわかっていたけど。
「……なら、抱きしめて寝ていい?」
「いいですけど、シャワーは……」
「シャワー浴びたら服着ちゃうでしょ?」
「当たり前です……」
「じゃ、離してあげない」
「もう……」
返事も待たずに抱きしめられて、隙間なくぴたりと肌が触れあう。
彼の鼓動が直に伝わってきた。
(……この音……好きだなあ……)
ただ穏やかに言葉を交わすだけでも満たされるのは本当だ。
なのに、彼の熱に触れると飢餓感のほうが強くなる。どうしてかは、わからない。
ただその笑顔を見ているだけで幸せなのに、その裏の、もっと強い欲を向けてほしいと願う私も、確かに存在する。
荒い息を吐き出して視線を上げると、熱を孕んだ瞳が見下ろしていた。
背筋がぞくりと粟立つ。今にも捕食されてしまいそうなほど、熱い。
……なのに、なぜか恐怖よりも喜びが思考を満たした。
「……どうしたの? 身体つらい?」
私がじっと見つめ返したのをどう受け取ったのか、今度はその瞳に優しさを灯して、彼が気遣わしげに覗き込んでくる。
声にならない愛しさが溢れて、思わずその頬に指で触れた。するりと撫でてから、はっと正気に戻る。
「いえ……その、シャワー浴びてきますね」
自分でも恥ずかしくなるほど、蕩けた顔を見せてしまっていたと気付いた。
現実に引き戻されて身体を起こそうとすると、彼の手がそれを柔らかく留める。
「ダーメ。もうちょっとイチャイチャしよ……」
「でも……汗を流したいので――んっ」
紡ごうとした言葉はキスで塞がれる。
本当はわかっていた。彼の瞳が、満足なんてしていないことを物語っていたから。
そして、きっと私も見透かされている。口先では冷静さを保ちながら、本当は満たされていないことを。
「……もう終わりですよ」
「えー……」
深いキスから解放されると同時に、制止するように人差し指で彼の唇に触れる。
拗ねた顔を向けられて、ちいさく笑った。
「岡崎さん、明日も早いですよね」
「キミは寝てていいよ? 出るとき鍵かけといてくれれば」
「そういう問題じゃなくて……ちゃんと寝なきゃダメですよ」
「オレの睡眠は良質だから大丈夫なんだけどなあ……しかも今日はキミが一緒だから、ぐっすり眠れるし」
「なら、せっかく私と一緒に眠れるんですから、少しでも長いほうがいいですよね」
「……いじわる」
理屈で本能を覆い隠して、私はにっこりと笑顔を向けた。
これ以上溺れてしまうと、自分の浅ましさを隠し切れなくなってしまうから。
――今さら取り繕ったところで、意味などないこともわかっていたけど。
「……なら、抱きしめて寝ていい?」
「いいですけど、シャワーは……」
「シャワー浴びたら服着ちゃうでしょ?」
「当たり前です……」
「じゃ、離してあげない」
「もう……」
返事も待たずに抱きしめられて、隙間なくぴたりと肌が触れあう。
彼の鼓動が直に伝わってきた。
(……この音……好きだなあ……)
ただ穏やかに言葉を交わすだけでも満たされるのは本当だ。
なのに、彼の熱に触れると飢餓感のほうが強くなる。どうしてかは、わからない。
ただその笑顔を見ているだけで幸せなのに、その裏の、もっと強い欲を向けてほしいと願う私も、確かに存在する。
【水泡の記憶B】
心臓の音が聴こえる。
とくり、とくりと心地よくて、でもたぶん平常時より少し速いリズム。
まるで子守唄のような音色は、彼女のものか自分のものかわからない。
このまま混じりあって、ひとつになれたらいいのに。
「って、岡崎さん……このまま寝る気ですか?」
「んー……ダメ?」
「もうちょっと離れてもらえると……」
「ひどい……オレはくっついてたいのに」
嵐のような熱が過ぎれば、心地よい倦怠感が襲ってくる。
不安も、欲情も、寂しさも消えて安心感だけに包まれる。
本当は熱に浮かされているときより、この時間がいちばん好きだ。
「……最近さ、眠るのもったいないって思うんだよね」
「どうしたんですか、睡眠大好きの岡崎さんが……」
「だって、寝たら朝が来ちゃうじゃない」
「そんな5月病の会社員みたいなこと……」
「そうじゃなくて。キミと離れるのが嫌ってこと」
「ああ……」
「反応おかしくない? そこは照れてよ」
「ふふ……いえ、私もその気持ちはわかるので納得しただけですよ」
「……ほんと? オレと離れたくないって思ってくれてる?」
「当たり前じゃないですか」
苦笑しながら、彼女がオレの背に回した腕にぎゅっと力を込める。
さっきよりも心音が少し速くなる。相変わらず、どちらのものかもわからない音。
「なら……もっとくっついて」
「今でも十分くっついてますよ?」
「……足りないよ」
恋人同士になったら、彼女と未来の約束をしたら、もっと落ち着くと思っていた。
なのに欲は深まるばかりで、焦燥感と安心感が交互にやってくる日々だ。
最近つくづく思う。恋って穏やかじゃない。
「オレってキミに振り回されてるなあ……」
それは心外だと彼女が文句を言う声に笑いながら、徐々に強くなる眠気に目を閉じる。
このまま息もできない水底に、ふたりで沈んでいけたら、なんて。
今だけは自堕落な自分を許して、そんな考えに浸った。
心臓の音が聴こえる。
とくり、とくりと心地よくて、でもたぶん平常時より少し速いリズム。
まるで子守唄のような音色は、彼女のものか自分のものかわからない。
このまま混じりあって、ひとつになれたらいいのに。
「って、岡崎さん……このまま寝る気ですか?」
「んー……ダメ?」
「もうちょっと離れてもらえると……」
「ひどい……オレはくっついてたいのに」
嵐のような熱が過ぎれば、心地よい倦怠感が襲ってくる。
不安も、欲情も、寂しさも消えて安心感だけに包まれる。
本当は熱に浮かされているときより、この時間がいちばん好きだ。
「……最近さ、眠るのもったいないって思うんだよね」
「どうしたんですか、睡眠大好きの岡崎さんが……」
「だって、寝たら朝が来ちゃうじゃない」
「そんな5月病の会社員みたいなこと……」
「そうじゃなくて。キミと離れるのが嫌ってこと」
「ああ……」
「反応おかしくない? そこは照れてよ」
「ふふ……いえ、私もその気持ちはわかるので納得しただけですよ」
「……ほんと? オレと離れたくないって思ってくれてる?」
「当たり前じゃないですか」
苦笑しながら、彼女がオレの背に回した腕にぎゅっと力を込める。
さっきよりも心音が少し速くなる。相変わらず、どちらのものかもわからない音。
「なら……もっとくっついて」
「今でも十分くっついてますよ?」
「……足りないよ」
恋人同士になったら、彼女と未来の約束をしたら、もっと落ち着くと思っていた。
なのに欲は深まるばかりで、焦燥感と安心感が交互にやってくる日々だ。
最近つくづく思う。恋って穏やかじゃない。
「オレってキミに振り回されてるなあ……」
それは心外だと彼女が文句を言う声に笑いながら、徐々に強くなる眠気に目を閉じる。
このまま息もできない水底に、ふたりで沈んでいけたら、なんて。
今だけは自堕落な自分を許して、そんな考えに浸った。
【水泡の記憶A】
お風呂から上がって髪を乾かしていると、テーブルの上のあるものに目が留まった。
ここ数日、柳さんが頭を悩ませているジグソーパズルだ。
――仕事帰りは柳さんの自宅を兼ねたこの事務所に通うことが多くなった。
普段は夕飯を一緒に食べて帰るけど、香月も大学生になって帰りが遅くなることが増えたから、今日のように泊まっていくこともある。
(パズルに苦戦してる柳さん、可愛いんだよね)
この部屋を訪れるたびパズルの進み具合を確認するものの、まだ完成には程遠いようだった。
それでも、数ピースずつでも埋まっていくのを見ていると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。
(……あ。これ、ここに合うんじゃないかな)
たまたま目についたピースを持ち上げて、パズルに照らし合わせてみる。
はめてみたい衝動に駆られながらも、手を止めた。
……柳さんは今、私と入れ違いでお風呂に入っている。
(勝手にやったら、怒られちゃうかも)
柳さんは懐の広い人だけど、パズルのこととなるとけっこう導火線が短い。
なにより、彼の楽しみを奪いたくはないから。
(でも、怒った柳さんも見てみたい……なんて、重症だなあ……)
べつに怒らせたいわけじゃない。ただ、普段は冷静な彼が私だけに見せてくれる表情が、好きで。
自分の思考に苦笑してから、ピースを脇に戻す。
――ふと、背後から、ふわりといい香りがした。
「そんなところで突っ立って、どうした?」
「ひゃっ!?」
いつの間にか近づいていた柳さんが、真後ろから顔を出す。間近に迫った横顔に、鼓動が跳ねた。
「……驚きすぎだろう。なにか悪いことでもしてたのか?」
「い、いえ! 勝手にパズルを完成させたりしてません!」
慌てて否定すると、一拍のち、ふっとちいさな笑い声が聴こえる。
聴き慣れたはずのその響きにも、ドキリとしてしまう。
「べつに少しくらい構わない。これだけピースがあるしな」
「……でも、完成させちゃったらさすがに怒りますよね?」
「そりゃ、まあ……。興味があるのか? 他にも手をつけてないやつがあるから、持って帰ってもいいぞ」
そう言って身体を少し離すと、柳さんはジグソーパズルをしまってあるらしい戸棚に目を向けた。
「違うんです。その……柳さんの怒ったところもちょっと見てみたいな、とか……思ってしまって」
素直に告げてみれば、彼が虚を突かれたように目を丸くする。
……またやってしまった。意図的にそうすることも多いけど、私は彼の前だと素直になりすぎる。
柳さんは滅多に動じたりしないけど、引かれたら立ち直れない。
「……俺に怒られたいのか?」
「いえ、あの……変な意味じゃなくて」
「普通は変な意味に取るぞ……怒られるのが好きとかそういう」
「違います……!」
「まあ、言いたいことはなんとなくわかる。だが……何もないのに怒るのは難しいな」
まともに受け取ってくれた柳さんが、顎に手を当てて眉を寄せている。
こんなところも好きだなあなんて、その横顔を見つめていたら、ふと目が合った。
「怒る、とは少し違うが。意地悪ならできるぞ」
「えっ……」
「今日は優しくしないよう努力する」
「そっ、そんな努力はしなくていいです……!」
言外に違う意味が含まれてる気がして、私は慌ててぶんぶんと首を振った。
「はは、それは残念だ。じゃあ、他は? 俺に何をしてほしい?」
いつものように私を甘やかす言葉をささやいて、頬を撫でてくれる。
この優しい指に触れられると、何度だってこの気持ちを伝えたくなる。
「何かしてほしいというより……私がしてあげたいんです」
彼の濡れた髪から伝わる雫が、ぽつりと落ちた。
まずは髪を乾かしてください、なんて言葉は浮かんですぐ消える。
――今は、この温度に浸っていたかった。
お風呂から上がって髪を乾かしていると、テーブルの上のあるものに目が留まった。
ここ数日、柳さんが頭を悩ませているジグソーパズルだ。
――仕事帰りは柳さんの自宅を兼ねたこの事務所に通うことが多くなった。
普段は夕飯を一緒に食べて帰るけど、香月も大学生になって帰りが遅くなることが増えたから、今日のように泊まっていくこともある。
(パズルに苦戦してる柳さん、可愛いんだよね)
この部屋を訪れるたびパズルの進み具合を確認するものの、まだ完成には程遠いようだった。
それでも、数ピースずつでも埋まっていくのを見ていると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。
(……あ。これ、ここに合うんじゃないかな)
たまたま目についたピースを持ち上げて、パズルに照らし合わせてみる。
はめてみたい衝動に駆られながらも、手を止めた。
……柳さんは今、私と入れ違いでお風呂に入っている。
(勝手にやったら、怒られちゃうかも)
柳さんは懐の広い人だけど、パズルのこととなるとけっこう導火線が短い。
なにより、彼の楽しみを奪いたくはないから。
(でも、怒った柳さんも見てみたい……なんて、重症だなあ……)
べつに怒らせたいわけじゃない。ただ、普段は冷静な彼が私だけに見せてくれる表情が、好きで。
自分の思考に苦笑してから、ピースを脇に戻す。
――ふと、背後から、ふわりといい香りがした。
「そんなところで突っ立って、どうした?」
「ひゃっ!?」
いつの間にか近づいていた柳さんが、真後ろから顔を出す。間近に迫った横顔に、鼓動が跳ねた。
「……驚きすぎだろう。なにか悪いことでもしてたのか?」
「い、いえ! 勝手にパズルを完成させたりしてません!」
慌てて否定すると、一拍のち、ふっとちいさな笑い声が聴こえる。
聴き慣れたはずのその響きにも、ドキリとしてしまう。
「べつに少しくらい構わない。これだけピースがあるしな」
「……でも、完成させちゃったらさすがに怒りますよね?」
「そりゃ、まあ……。興味があるのか? 他にも手をつけてないやつがあるから、持って帰ってもいいぞ」
そう言って身体を少し離すと、柳さんはジグソーパズルをしまってあるらしい戸棚に目を向けた。
「違うんです。その……柳さんの怒ったところもちょっと見てみたいな、とか……思ってしまって」
素直に告げてみれば、彼が虚を突かれたように目を丸くする。
……またやってしまった。意図的にそうすることも多いけど、私は彼の前だと素直になりすぎる。
柳さんは滅多に動じたりしないけど、引かれたら立ち直れない。
「……俺に怒られたいのか?」
「いえ、あの……変な意味じゃなくて」
「普通は変な意味に取るぞ……怒られるのが好きとかそういう」
「違います……!」
「まあ、言いたいことはなんとなくわかる。だが……何もないのに怒るのは難しいな」
まともに受け取ってくれた柳さんが、顎に手を当てて眉を寄せている。
こんなところも好きだなあなんて、その横顔を見つめていたら、ふと目が合った。
「怒る、とは少し違うが。意地悪ならできるぞ」
「えっ……」
「今日は優しくしないよう努力する」
「そっ、そんな努力はしなくていいです……!」
言外に違う意味が含まれてる気がして、私は慌ててぶんぶんと首を振った。
「はは、それは残念だ。じゃあ、他は? 俺に何をしてほしい?」
いつものように私を甘やかす言葉をささやいて、頬を撫でてくれる。
この優しい指に触れられると、何度だってこの気持ちを伝えたくなる。
「何かしてほしいというより……私がしてあげたいんです」
彼の濡れた髪から伝わる雫が、ぽつりと落ちた。
まずは髪を乾かしてください、なんて言葉は浮かんですぐ消える。
――今は、この温度に浸っていたかった。
【水泡の記憶B】
頬を撫でる俺の手に、彼女のちいさな手のひらがそっと重なる。
互いに立っているから自然と彼女が俺を見上げる形になって、熱を帯びたその視線に、ふつりと腹の底が熱くなった。
「怒ったところを見てみたい、なんて言いましたけど……それよりも、私のすることで柳さんを笑わせたいです」
「いつもお前のせいで必死にニヤケ顔を抑えてるぞ」
「抑えなくていいのに……」
軽い触れあいじゃ物足りなくなって、空いている片方の手で彼女の腰を引き寄せる。
より近くなった温度に、どちからともなく安堵の息が洩れた。
「そういえば、柳さんってくすぐられるのは得意ですか?」
「なんだいきなり……物理的に笑わすつもりか」
「くすぐったいのに弱い柳さんも可愛いなって」
「お前……」
俺のこと好きすぎるだろ、という言葉は飲みこんだ。自惚れじゃなくただの真実だから、そう言えば彼女は笑顔で頷くに決まっている。
それを前にして色々と抑えられる自信が、ない。
「くすぐられるのが弱いのは、どっちだか」
「え、あ……っ、ちょ……っ……ダメ、ですってば」
腰を抱いていた手を滑らせて脇腹をくすぐると、身体を震わせた彼女がしがみついてくる。
その反応ひとつひとつが男を煽るということを、この年下の恋人に徹底的にわからせたい衝動に駆られた。
「はあ……色々と心配になる」
「……あ、そんな難しい顔しちゃダメです。ほら、眉間の皺。またお父さんって言われちゃいますよ」
「おい。言い方に棘ないか」
「ふふ。笑ってほしいって意味です」
「まったく……」
年齢のわりに落ち着いているだとか、老けてるだとか散々周りから言われてきたが、最近思う。
市香と付き合うようになってから、確実に若返っているというか……大人でいられなくなった。
恋人が可愛すぎるゆえの心配事もあるが、それ以上に笑顔の数が増えた。
感情を出すことを喜んでくれる彼女につられて、心が豊かになっていくのを実感する。
(傍から見ればバカップルと言われるのかもしれないが。
こんな自分も悪くない……どころか、好きだと思えるんだから、重症だな)
「あ……笑ってくれて嬉しいですけど、なに考えてたんですか?」
「ん、そうだな……立ち話もなんだし、ベッドで教えてやる」
ぱっと頬を赤く染めた市香を抱き上げて、言葉通りベッドに足を向けた。
ふと、テーブルの上のジクソーパズルが視界に入る。夜明け色の空を描いた、未完成のパズル。
ひとつひとつピースがはまっていくたびに、彼女との思い出も増える気がした。
この出逢いをなんと呼ぶのだろう。きっと、世界にとっては特別なことじゃない。ありふれた日常と、幸福。
――俺は、それがなによりも愛しいものだと知っていた。
頬を撫でる俺の手に、彼女のちいさな手のひらがそっと重なる。
互いに立っているから自然と彼女が俺を見上げる形になって、熱を帯びたその視線に、ふつりと腹の底が熱くなった。
「怒ったところを見てみたい、なんて言いましたけど……それよりも、私のすることで柳さんを笑わせたいです」
「いつもお前のせいで必死にニヤケ顔を抑えてるぞ」
「抑えなくていいのに……」
軽い触れあいじゃ物足りなくなって、空いている片方の手で彼女の腰を引き寄せる。
より近くなった温度に、どちからともなく安堵の息が洩れた。
「そういえば、柳さんってくすぐられるのは得意ですか?」
「なんだいきなり……物理的に笑わすつもりか」
「くすぐったいのに弱い柳さんも可愛いなって」
「お前……」
俺のこと好きすぎるだろ、という言葉は飲みこんだ。自惚れじゃなくただの真実だから、そう言えば彼女は笑顔で頷くに決まっている。
それを前にして色々と抑えられる自信が、ない。
「くすぐられるのが弱いのは、どっちだか」
「え、あ……っ、ちょ……っ……ダメ、ですってば」
腰を抱いていた手を滑らせて脇腹をくすぐると、身体を震わせた彼女がしがみついてくる。
その反応ひとつひとつが男を煽るということを、この年下の恋人に徹底的にわからせたい衝動に駆られた。
「はあ……色々と心配になる」
「……あ、そんな難しい顔しちゃダメです。ほら、眉間の皺。またお父さんって言われちゃいますよ」
「おい。言い方に棘ないか」
「ふふ。笑ってほしいって意味です」
「まったく……」
年齢のわりに落ち着いているだとか、老けてるだとか散々周りから言われてきたが、最近思う。
市香と付き合うようになってから、確実に若返っているというか……大人でいられなくなった。
恋人が可愛すぎるゆえの心配事もあるが、それ以上に笑顔の数が増えた。
感情を出すことを喜んでくれる彼女につられて、心が豊かになっていくのを実感する。
(傍から見ればバカップルと言われるのかもしれないが。
こんな自分も悪くない……どころか、好きだと思えるんだから、重症だな)
「あ……笑ってくれて嬉しいですけど、なに考えてたんですか?」
「ん、そうだな……立ち話もなんだし、ベッドで教えてやる」
ぱっと頬を赤く染めた市香を抱き上げて、言葉通りベッドに足を向けた。
ふと、テーブルの上のジクソーパズルが視界に入る。夜明け色の空を描いた、未完成のパズル。
ひとつひとつピースがはまっていくたびに、彼女との思い出も増える気がした。
この出逢いをなんと呼ぶのだろう。きっと、世界にとっては特別なことじゃない。ありふれた日常と、幸福。
――俺は、それがなによりも愛しいものだと知っていた。