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SPECIAL

■発売記念ショートストーリー

『白紙の夢』

耳障りな高音が鳴り響いた。
眠気の残る身体を起こしながら、音の発信元であるベッドサイドの目覚まし時計に手を伸ばす。どうやら昨夜は持ち帰りの仕事をしている最中にそのまま寝てしまったらしい。書類や本で乱雑になった室内を見回して、神賀旭は苦笑した。

「ふう……もうこんな時間か。出る準備しなきゃ」

『教師』という職業はやることが多い。日中の授業以外でも、提出物の確認にテストの問題作り、採点はもちろんのこと雑多な書類作成も多岐に渡る。加えて神賀は放課後に『特別授業』と称して担任以外の生徒のことも受け持っている上、個人的な目的のためにやらなければならないことも多く、文字通り休む暇はない。それでも今の生活を苦に思ったことがないのは、長年願い続けたことが現実に近づいているからか、それとも『教師』という職業を少なからず楽しんでいるからか。

「あ、今日は作文返す日だったっけ。全員分揃ってるかな。えーっと……」

朝の身支度を整えて、仮住まいとしている家を出ようとした矢先、鞄の中身に不安を覚えて改めて書類を取り出した。それは先日、国語の授業で生徒たちに書かせた『将来の夢』をテーマにした作文だ。昨夜、それを添削している途中で眠りに落ちた記憶がある。ほとんど見終えたはずだと思いながら枚数を数えていると、ひとりの生徒の名前が目に留まった。

――九楼撫子。彼女らしい丁寧な字体で、丁寧に書かれた将来への展望。医者になりたいと語る内容は大人びたものだったが、未来への不安や期待、子どもらしさも感じられる素敵な作文だ。昨夜読んだ時も、神賀はそう微笑ましく感じた。同時に、心苦しさも覚えた。こんなにも、彼女の未来は可能性に満ち溢れていたはずだったのに。

(……いや、違う。ここは――幻の世界だ)

ゆるくかぶりを振って、思考を打ち消す。今の自分は教師で、神賀旭として振る舞わなければならない。神賀旭にあるはずのない感傷は一時的にも切り捨てなければ、目的は果たせないのだから。

「……他の子はどんなことを書いたのかな」

この作文は全クラス共通の授業でやったものだ。担任を受け持っている3人以外、自身が呼び集めた他の課題メンバーはどんなことを書いたのだろうと少し興味が沸いた。本来の目的からは逸脱して、教師として彼らを気にしていることが少し可笑しくもあり、自分らしいとも思った。

必要な枚数が揃っていることを確認し終えて、ふと気付く。最後の1枚、名前だけは書いてあるが白紙の作文があった。それ以外は全員分読んだ記憶があるから、漏れていたのだろう。作文が苦手な生徒はいるし、いくら教育レベルの高い学校とはいえ、時折こういう――いわゆる問題行動を起こすこともあり得る。提出時に気付かないなんてとんだミスだと自省しながら眼前に掲げた紙に、神賀は目を瞠った。

――海棠鷹斗。

白紙の作文用紙の冒頭には、その名前だけが浮かび上がるように記されていた。


◇   ◇   ◇


「おはよう、鷹斗」
「……ん……あ、おはよう。撫子、理一郎」
「? どうしたんだ。今日は反応鈍いな」
「もしかして……体調悪い?」
「ううん、ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」
「あ、おっはよー! 相変わらず3人とも仲良いねー!」
「痛っ! ……おい、央。朝の挨拶なら普通にしろ、普通に」
「ごめんごめん! つい勢い余っちゃって!」
「朝から央による全力の体当たりを体感できたのですから光栄に思ってください、りったんさん」
「思えるか。円もたまにはこいつの暴走を止めろよ」

平日の朝。校門を抜けた先では、いつもと何も変わらない日常風景が繰り広げられていた。特別授業を通して知り合った『課題メンバー』と呼ばれる面々が交流を持ち、早数週間。当初は反発していた理一郎も英兄弟の奇行に慣れ、軽くあしらえる程度には仲が深まっている。

「そうだ! 今日さ、課題ない日だよね。放課後空いてたらみんなで遊ばない?」
「課題ない日だからこそ、静かに過ごさせろよ……」
「またまたー、りったん。そんなこと言って仲間外れは寂しいでしょ?」
「りったんさんは素直ではないですから。否定は肯定と受け取っていいでしょう」
「ふふ、あながち間違ってないかも」
「おい、撫子。お前まで乗っかるなよ」
「今日は茶道部ない日よね。意地張らないで理一郎も一緒に行きましょう」
「……お前もだいぶ毒されてきたな」
「うんうん、決まりーっ! じゃあ、殿とトラくんも捕まえて――」
「あ、ごめん。俺は今日、ちょっと無理かも」
「鷹斗さん? なにか予定があるんですか?」

教室へと続く廊下を歩きながら、相変わらず唐突な央の提案で話は盛り上がる。だが、鷹斗が切り出した言葉に他の4人は目を丸くした。鷹斗は小学生ながら仕事でも研究に携わっていて、放課後に時間が取れないこともある。だが最近はその頻度は格段に減り、鷹斗自身、他の予定よりも課題メンバーとの交流を優先している節があったのだ。

「予定っていうか……その、たぶん先生に呼び出されそうだなって」
「え……!? 鷹斗が……?」
「呼び出し!? 僕じゃなくて鷹斗くんが??」
「先生からの呼び出しと言えば、央が十八番のはずですが」
「それもどうかと思うんだが……確かに違和感あるな。お前、なにかやったのか?」
「うーん……。まだ予想なんだけど、まあ普通だったら呼び出されるかな」
「えーっ!? なにそれ気になる!」

――と、話題が盛り上がりかけたところで、タイミングよく予鈴が鳴った。央と円は名残惜しそうにしながらも、また昼休みにでもと言い合ってそれぞれの教室へと向かう。

「でも、すぐに終わるかもしれないし。時間が合えば俺も合流するよ」

そんな鷹斗の言葉に、撫子と理一郎はふたり顔を見合わせてちいさく首を傾げた。勉強でも授業態度でも他に並ぶ者がいないほどの優等生である鷹斗が、先生に呼び出される理由。まったく予想のつかないそれが気になったものの、彼の態度からなんとなく追求するのも憚れて、示し合せるように撫子と理一郎は自身の席に着くことにした。


◇   ◇   ◇


「して、なにをして遊ぶのだ? カンケリか? あれは熱い遊戯だ。決着をつけるには朝を迎える覚悟がいるな」
「それは困ります。両親が心配しますし、央を不良の道に進ませるわけにはいきません」
「カンケリ面白そうだけどねー。うーん、なにがいいかなあ?」


一日の授業が終わり、生徒たちが思い思いに過ごす放課後。廊下の真ん中で央たちが言葉を交わしているところに、複数の足音が響いた。同じく授業が終わった6-Aの3人組の姿を視界に移して、央がパっと顔を上げる。

「あ、3人とも! こっちこっち。殿はゲットできたよー」
「なんかカンケリとか言ってたけど……あまり激しい運動は嫌だぞ」
「りったんさんはインドアタイプですね」
「これでも昔は外でよく遊んでたのよ。今はひとりでパズルとかクロスワードとかばかりやってるけど」
「撫子、余計なこと言うな」
「木に登ったり……川で流されたこともあったわよね」
「あれはお前のせいだろ」
「そういえば鷹斗くん、結局呼び出しってやつ大丈夫だったの?」
「あ、うん……大丈夫……だったみたい」
「……にしては、なんか元気ない? もしかして呼び出されたかった系?」
「あはは。そういうわけじゃないけど」
「ところで、寅之助はどうしたのだ。央、同じクラスであろう?」
「よく覚えていましたね、殿さん」
「うむ。最近の私は頭が冴えわたっておるのだ」
「それがさー、授業終わったらすぐ捕まえようと思ったんだけど、そもそもトラくん最後の授業サボってて……帰っちゃったのかなあ」

「――西園寺くんなら中庭のベンチで寝ていましたよ」

そこに、涼やかな声が割って入った。全員が視線を向けた先には、特別授業の担当教諭でもある神賀旭が穏やかな笑顔で立っている。

「みなさん、仲良くなってくれたみたいで嬉しいです。遊びに行くのはいいですが、危険なところには立ち入らないように」
「はーい! 神賀センセー、トラくんの情報ありがとうございまっす! さっそく捕獲しに行かなきゃ!」
「トラさんは寝ているところを罠にかけるのが一番効率が良いですからね」
「さよう。あとは央の料理でも餌にすれば一発だ」
「お前ら、西園寺を猛獣かなにかと勘違いしてないか……?」
「でも、トラが参加してくれる時って大抵この流れよね」
「そうだけど……ちょっとあいつに同情するぞ」

寅之助の目撃情報を聞いて浮かれた面々は、さっそく中庭へと繰り出そうとする。元気よく走り出した央や、円に手を引かれる終夜に苦笑しながら、撫子も廊下の先へと足を向けようとして――ふと、立ち止まった。

「……神賀先生、ちょっといいですか」
「はい、どうしました?」

鷹斗だけがその場に留まり、生徒を笑顔で見送ろうとしていた神賀に声をかけたからだ。他のメンバーの背中が廊下の先に消えていくのを横目に見ながら、撫子は足を止め、理一郎も少し先で振り返った。

「……鷹斗、大丈夫?」
「うん。心配しないで。俺もすぐ行くから」
「……わかった。じゃ、中庭で待ってるからな」


◇   ◇   ◇


「……本当に仲良くなりましたね。海棠くんの力も大きいと思いますが」

撫子たちが去った後、静かになった廊下の隅で神賀は目を細めた。それから、いつになく翳りのある面持ちで下を向く鷹斗を一瞥して、苦笑する。

「あの、神賀先生」
「今日返した作文のことですか?」

切り出そうとして、すぐに本題を言い当てられたことに鷹斗は一瞬だけ瞠目した。しかし考えてみれば当たり前だと思い直し、まっすぐ神賀を見つめて頷く。

「たぶん、白紙で出したの俺だけですよね。普通だったら再提出の対象だと思うんです。それか、理由を聞かれるだろうなって。でも、返って来た作文にはなにも書いてなかった」
「それで自分から聞きに来るのも、真面目ですね。海棠くんは普段の成績も良好ですし、たまには白紙もいいんじゃないかと思っただけですよ」
「え……。そんな理由、なんですか?」
「はい。他に理由があると思ったんですか?」
「……神賀先生は、生徒のことをよく見てますから。俺が見てきた先生なら……白紙の理由を気にします。なにか悩みがあるんじゃないかと聞かれると思いました」
「…………」

鷹斗の言葉に、神賀はしばし沈黙した。
そのほんの一瞬で神賀が見せた表情に、鷹斗はわずかな動揺を覚えることになる。――苦痛に耐えるように眇められた瞳。まるで、憐みとも呼べる色で揺れた彼の瞳に、なぜかぞわりと背筋が震えた。

「……いつか夢が見つかりますよ」
「え?」
「必ず、君だけの夢が見つかります」
「……神賀先生」
「再提出しろと言えば、海棠くんはその通りにするでしょう。今度は『完璧に』、『大人びた子どもらしい作文』を書いてくるでしょう? それじゃダメだと先生は思うんです。あの白紙は、今の海棠くんのありのままの気持ちなんですから。無理に書くことはないんですよ」

そう言って微笑んだ神賀の瞳は、いつもの穏やかでいて優しい教師のそれに戻っていた。けれど、彼の言葉の意図や垣間見えた表情の意味。どれも脳裏で引っかかりを覚えて、鷹斗は素直に頷けないでいた。

「とはいえ、見逃すのは今回だけです。さすがに作文の授業全てを放棄なんてのは受け入れられませんからね。次は必ず書いてきてください」
「……はい」

茶化すような声色と笑みに、今度こそ鷹斗はしっかりと頷いた。これは、いつもの『先生』だ。どこか真意の読めないところはあるけれど、生徒のことを想い、大人として導こうとしてくれる人。そして完璧であると称されてきた自分のことも、おそらく問題を抱えたひとりの生徒として見てくれている。そのことが奇妙でもあり嬉しくもあり、鷹斗は神賀の言葉をまっすぐに受け入れようと思った。

「すみませんでした。次はちゃんとします」
「みなさんが待ってますよ。いってらっしゃい」
「……はい! ありがとうございます」

思考を切り替えて元気よく返事をした鷹斗が、踵を返す。その姿を、神賀は教師の顔で見送った。――けして、微笑みを絶やすことなく。


◇   ◇   ◇


「鷹斗! 大丈夫だったの?」
「うん。ごめんね、遅れちゃって。あ、西園寺くん捕獲できたんだ。よかった」
「っつうかさ……てめえら、いっぺんキレねえとわかんねえワケ? 今日は乗り気じゃねーって言ってんだろ。何度も付き合ってられっか」
「だが、央の料理は魅力的であろう?」
「央と同じ空気が吸えること自体が奇跡だと思ってください。それに、今日は撫子さんもいます」
「いや、なんでそこで撫子が出てくるんだ」
「撫子さんがいるとトラさんの参加率は飛躍的に上がる統計が出ています」
「え。……トラ、そうなの?」
「はあ? 意味わかんねえ。……ま、お前とか加納がいたほうがまだ常識通じるからな。そういう意味ではマシだけど」
「トラくんってば、素直じゃないなー」
「てめえ、そろそろ本気でしばくぞ」
「あはは。まあいいじゃない、暇なら遊ぼうよ。今日は課題じゃないんだし」
「そうだぞ、寅之助。後から泣いても遅いのだぞ?」
「誰が泣くかよ! はあ……マジで後で美味いもん持って来いよ、英」
「うんうん! そこは任せといて!」
「それで、結局遊ぶって言ってもなにするんだ」
「あ。なにするか決まってなかった! うーん……」
「……ねえ、鷹斗」
「ん? どうしたの、撫子」
「鷹斗はなにかしたいこと、ない?」
「……え、俺?」

唐突に話を振られて、鷹斗が目を瞬く。いつもならば央や終夜あたりが斜め上な提案をして、それを撫子や理一郎が呆れつつ宥め、鷹斗が折衷案を持ち出す。そんな流れが固定化されていたからか、最初の案出しから振られるとは思わず、鷹斗はなにか違和感を覚えた。

「ええと……その、深い意味はないのだけど、鷹斗ならいい案を出してくれるかなって」
「そうですね。今日は鷹斗さんがしたいことをしましょう」
「……うむ。たまには良いのではないか。そういえば鷹斗が自分から発案することはあまりなかろう」
「いいねー! 鷹斗くんなら無茶なこと言わないだろうし!」
「や、オレにとっちゃ英より海棠のほうが面倒なこと言いそうな印象あんだけど」
「それは西園寺を説得する時に限るんじゃないのか」

全員が口々に撫子の言葉に賛同し、鷹斗に視線を集めた。当の本人は、まだ事態を把握しきれず首を傾げる。――が、すぐに思い当たった。今日、先生に呼び出されるかもしれないと言ったことについて、追及されるかと思ったが誰もそのことを口にしない。話を知らない終夜や寅之助はともかく、好奇心旺盛な央や、心配してくれているであろう撫子や理一郎までもだ。それは無意識の行為かもしれない。けれどきっと、少なからず気落ちしていた鷹斗の心情を汲み取り、気遣ってくれたのだとわかった。

「俺のやりたいこと……」

環境や立場、様々な状況下に合わせて、目的を見出すことは出来る。好奇心からやってみたいことはたくさん見つけられる。誰かの希望に自分の意志を混ぜることも日常茶飯事。けれど、こうして改めて聞かれるとわずかに迷った。――それは、言葉に出来ない喜びに近い戸惑いだったのかもしれない。

「俺は、」

自分だけの未来はまだ見つけられない。白紙の未来予想図は、きっとこの先、ずっと付き纏う影だ。幼い頃に悟ってしまった自身の可能性は、そう簡単に覆せるものではない。

『……いつか夢が見つかりますよ』

先生が言っていた言葉が現実になるかもわからない。けれど。

「俺はね、みんなと一緒にいられるだけで、いつだって楽しいよ」

今は、それが事実で、それだけが自分にとってなにより大切なことだった。

「答えになってないだろ、それ。なんだ急に」
「あはは。だって本当だから。みんなと遊べるってだけでワクワクするんだ。そうだなあ……俺が決めていいなら、たくさんあるよ。前からやってみたかったのは、山登りかな」
「……や、山登り?」
「ハイキングっていうのかな。みんなでお弁当持って、なるべく整備されてない獣道を選んで頂上を目指すとか楽しそうだなって思ってたんだ。珍しい植物とか昆虫とか見つけられたら楽しいよね。でも、この時間からじゃ無理かあ」
「そうね……今度休日に集まってやってみましょうか」
「ちょっと待て、それはいいがなんで獣道選ぶんだよ」
「楽しそうじゃん! お弁当担当はもちろん僕と円ね!」
「山の頂上を目指す……か。『ろまん』があるな。遭難イベントも起きるであろう」
「お前の場合、マジで洒落になんねえからやめろ」

笑顔で告げた鷹斗に、仲間たちは顔を見合わせて笑った。彼の笑みがいつもの明るさを取り戻し、心から今を楽しんでいるものだと察したからだろう。
どこか安堵したような空気が流れ、次の瞬間には日頃と変わらない騒がしさがその場に満ちた。そんな喧騒の中、鷹斗は撫子に近寄ると、そっと囁く。

「……ありがとう、撫子」
「え?」
「心配させちゃったよね」
「ううん。……私もね、鷹斗と一緒にいるのが楽しいわ。いつも新しい発見があるもの」

はにかむような彼女の笑顔に、鷹斗の心臓がとくりと跳ねる。
いつも新しい発見がある、なんて。それはまるきり自分の台詞で。彼女に出逢ってから、どれだけ新しい景色を知っただろうと思うのに。

(……今まで見てたものが嘘みたいに、きらきら輝くんだ)

もしも終着点を見出した自分の『可能性』が覆されることがあるなら、それは彼女の手によるものかもしれない、と鷹斗は思う。――否、既にそうだ。自分は彼女の存在によって日々変化しているのだから。

ひとりでいるときには想像もつかないような景色が、鮮やかに描かれていく。
――白紙のページに、少しずつ色がついていく。

彼女の微笑みや、仲間たちの笑い声。
文字には出来ないそれらは、色褪せない宝物として輝きはじめていた。

END.
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