「夕空に響く」
――これは、俺がまだ十四、五歳のガキだった頃の話。

近頃、日が暮れるのが早くなった。赤く色づく山の向こうへ次第に日が落ちていく。
稽古もじきに切り上げる頃合いだが、俺としてはまだ物足りない。
あと一発、あともう一発。ずるずると稽古を続けていた。
角場の奥、杉板の的を見据えて銃を構えなおす。力み過ぎず、集中して、引き金をひいた。
銃弾は乾いた風を切り裂いて飛んでいく。この季節になると銃声が良く響いた。
(……少し外れた)
的に近づいて検分するまでは期待していたが、惜しくも命中とは言えない結果にまた未練が湧く。あともう一発だけ弾を込めようと思い立った。
そのとき背後で角場に誰か立ち入る気配を察して、咄嗟に言い繕う。
「もう切り上げるって」
うちの家業は藩の砲術指南役。父上や兄上はもちろん、姉上まで砲術に熱心だ。
剣術と違って砲術の稽古には弾丸が必要だった。こいつは消耗品でもちろん金がかかる。際限なく稽古を続けるわけにはいかないし、ある程度は弾を込めずに鍛錬するよう言いつけられていた。
つまり、今の状況は……
(使い過ぎだ。叱られる)
見逃してはもらえないだろう。小言を覚悟して振り返ると、そこにいたのは意外な人物だった。
幼馴染で学友、遊び仲間の少年――
「与七郎……じゃなかった。大蔵さん」
「やあ、三郎。邪魔するよ」
馴染み深い顔を見ると、つい幼い頃の名前が口をつく。
彼もかしこまった呼び名がまだ居心地悪い様子で肩を竦めてみせた。
彼が角場へ顔を見せるのは久しぶりだ。弱冠十八にして物頭に任じられてから近頃は何かと忙しそうだった。昔みたいに遊ぶこともなくなって角場からも足が遠のいていたのに。
「続けてくれ」
縁側に気安い態度で腰かけて見物人の構えになる。『当然、上達したんだろ?』と言いたげな、試すような表情。
(なんか用があって来たんじゃないのかよ)
怪訝に思いつつも稽古の時間が惜しくなってまた弾を込めた。
見飽きるほどに見慣れた的に向き合っても、いまは面白がる顔が視界の端に映る気がする。気が散るのは未熟な証拠だ。つとめて集中し、今一度的を見据えた。
もう暗くて視界が悪い。でも今は風はない。真ん中を見極めて引き金を引く。
今度は狙いどおりに的の中心を撃ち抜いた。
「命中!」
楽しげに声を上げたのは大蔵さんだった。大仰な仕草で何度も頷く。
「まだ分かんねーって」
的に近づいて確認すると、確かに弾丸は的の中央を貫いていた。今日はじめての達成感につい喜びの声を上げそうになるが、子どもっぽいと思われたくなくて堪える。
「さすがだなぁ。まだ習いはじめたばかりだろ? 怠らず励んでいるようで感心感心」
「なんかじじ臭いな」
誉め言葉を真に受けていいものか戸惑った。からかってるだけじゃないのか?
「じじ臭いのは仕方ないだろ」
「まあそうかもしれねーけど……」
大蔵さんは父親を早くに亡くした。父親代わりを担った祖父は優秀な人で藩財政の立て直しにも貢献した切れ者だ。
下に弟妹も多く、年のわりには大人びているというか妙に面倒見がいいというか。
苦労を表に出さない性質なんだろう。いつもご機嫌そうだ。
「大蔵さんは、砲術のほう最近は」
「いやぁ、実はご無沙汰だ。最低限、鈍らないようにしたいんだがな」
「せっかくなんで、どうぞ」
使っていたゲベール銃を差しだす。大蔵さんは銃を受け取り弾を込め、的へと向きなおった。
ご無沙汰という割に構えに隙はない。しっかりと銃を支え銃口の先を見る。
その真剣な横顔は、たしかにもう『与七郎』って感じじゃない。『大蔵様』だって貫録がにじみはじめている。
大蔵さん――与七郎さんと出会った頃、この岡本家は周囲から浮いていた。
侍のくせに刀よりも砲術にこだわる変な一家。西洋式銃の重要性を熱心に訴える兄上の態度が煙たがられて、弟の俺も子供のあいだで除け者にされがちだった。
そんな頃、周囲の目を気にせず俺を遊びに誘い、何かと気にかけてくれたのが与七郎さんだ。
与七郎さんが構うから次第に俺を除け者にする奴も減っていく。もしかしたらそうなることを予測してあえて人前で俺と親しくしたのかもしれない。
本人に聞いても『考えすぎじゃないか?』なんて笑ってはぐらかすだろうけど。
今は真剣な横顔が、的をまっすぐ見据えている。
引き金を引いた。同時に銃声が弾ける。束の間、硝煙が白く風を染めた。
「……命中、ならず。これに関しては、さすがに三郎に先を行かれた」
大蔵さんは肩を竦めて小さく笑う。
育ちの良さも頭の出来も、俺が大蔵さんに敵う要素は全然ない。でもこれだけは。銃の腕だけは、大蔵さんより――いや、同世代の誰よりも俺のほうが上手[うわて]だ。
そう実感すると、胸の奥がにわかに熱くなってくる。これだけは誰にも負けたくない。
「洋式銃はこれからますます重要視されていく。岡本家には先見の明があったなぁ。今後いっそう鍛錬に磨きをかけてほしい」
「なんだよ出し抜けに」
「俺はもうじき会津を出る。容保公の上洛にお供するんだ。お前も覚馬さんに聞いてるだろ」
容保公は京都守護職を拝命し、会津藩が京都の治安維持に協力するという。一年ごとの交替制とはいえ一度に千人もの藩兵が会津を去ることになる。
「そうか。大蔵さんも行くのか」
「ああ。そうだ、あの子にも伝えておいてくれ」
少し前までは与七郎さんだったのに。
これまでうっすらと感じていた世の変化が今ようやく実感できたように思う。
(いつまでも、昔と同じじゃいられないんだな)
連れだって商店を眺めたり祭りに行ったり、川や野で気兼ねなく遊んでいた彼は、いつの間にか名が変わり身分が変わり、この会津を出るという。
気がかりなのは隣家のこと。隣家に住む幼馴染の女の子。早くに亡くなった両親に代り、兄が男手ひとつで育てた。あいつの兄もじきに家を出るだろう。……うちの兄上も、大蔵さんまでも。身の回りに頼れる大人が減って、あいつも心細く思っていないだろうか。
「お前には期待してる。このまま強くなってくれ」
「言われなくてもそのつもりだって」
大蔵さんの手から銃を受け取る。急にいつもよりもずっしりと重たく感じた。取り落とさないよう、しっかりと握る。
「まっ、言いたいことはそれだけだ。邪魔したな。寂しがらせて悪いけど、辛抱してくれ」
「別に寂しかねーよ!」
言い返したときには大蔵さんはもうこちらへ背を向けていた。かすかに笑い声の余韻を残して去っていく。
軽口に乗せられてつい見送りの言葉を贈りそびれてしまった。
でも、大蔵さんのことだからどこにいても上手くやるんだろう。
(……俺には銃がある)
これだけは大蔵さんにも劣らない。
まだこれからも上手くなる。鍛錬を重ねて誰にも負けない砲兵になろう。
何があってもあいつを守れるように。
もう日が暮れてほとんど的は見えない。でも、夕日が山の向こうに姿をすべて隠すまで、あともう少しだけ、稽古を続けていこう。
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