スペシャル

「あっ、縁様! 月黄泉様でしたら留守ですよ!」
死に水に続く階段を降りきると、カメリアの明るい声がした。
ここは───奈落。死菫城の地下から更に深く下った場所で、死に水と月黄泉の庵がある。
「何だ、また消えたのか」
「天女島でしょうか」
「恐らくね。それよりカメリアこそ月黄泉に何か用だったんじゃないの?」
「そうなんですよ、最近やけに眠いので……調整してもらおうかなと」
このカメリアは月黄泉が作った人形だ。動いていると人と区別がつかないくらいだが、ゼンマイが切れると突然倒れる。そうなる前に気付いて巻き直すのも僕の役目の一つだった。
「調子が悪いなら、午後は休んでいてもいいよ」
「そういうわけでもないんです、全然元気なんですけど……ふぁ」
カメリアは大きな口を開けてあくびを洩らした。
「ところで縁様、オランピア様と初夜を迎えるお部屋の飾りつけは、どのようにいたしましょう?」
「彼女の前では絶対にそんな冗談を言うんじゃないよ」
「本気ですけど」
言うなりカメリアは指先でスカートをつまんでくるっと回ってみせた。
「花嫁衣装を早く見たいんです! だって僕はまだ一度も本物を見たことがありませんし! きっと素晴らしくお美しいでしょうね!」
「そうだね、さぞかしお美しいだろうね」
「他人事みたいな顔してみせても無駄ですからね? 最近、僕がお客様から追求されてばかりだってお気付きでしょう? 『私が何度お願いしても閨に来てくださらないのに【白】の娘だけは部屋に入れている』とか『地獄殿ともあろう方が【白】の娘にたぶらかされてしまった』とか、その逆に『オランピア様を手駒にするために甘い顔をしている』とか」
「今度そんなことを言われたら、僕の名で皆様まとめて出入り禁止にしていいよ」
「そういうところが、オランピア様にだけ甘いと言われる理由ですよ」
僕は死に水の泉をちらりと眺めた。
「彼女は眩しい陽の光だから、こんな薄暗い黄泉には相応しくない」
カメリアが小さく溜め息をついた。本当に人形とは思えない感情の細やかさだ。
「僕は縁様に幸せになっていただきたいんですよ。ジュリエットもそう言っています」
するとカメリアのポケットから小さな白い頭が覗き深々と頷いた───ように見えた。だいふく、パリス、ジュリエットは三兄妹なのだが、どうも普通の鼠とは違う。完全に人間の言葉を理解している気配がするし、カメリアにいたっては彼等と会話出来るらしいのだ。
もっとも、それくらいの不思議など可愛いらしい類いだ、この黄泉では。
『死に水』───飲むと恐ろしい病を引き起こすという、この泉の前では。
「死の穢れを纏った僕が彼女を愛すなんて許されないよ。今は花婿捜しが始まったばかりだから、皆様面白がってあれこれ言いたいだけさ」
「もういいです、縁様の意地っ張り」
カメリアはぷぅっと頬を膨らませ、軽い足取りで走り去った。
「……【白】の娘、か」
僕は泉に近付き、水面を覗き込む。
『何の罪もない貴方が……非道い咎人のように言われるのが嫌だったのだと思う』
【白】の女はお優しい。
この僕に、そんな言葉を向けるなんて。
『貴方は何も悪くない』
そう、悪いのは───君だ。


「……というわけなんだよ、聞こえてた?」
「き、聞こえていたわ……っ」
今日、僕は彼女に意地悪をした。とある男を呼びつけ、彼との会話をこっそり盗み聞きさせたのだ。
残酷で、不条理で、知ったらひどく傷つくのは分かっていた。だが、彼女がその目で見て、その耳で聞かなければならなかったことだ。彼女はまだ、自分が置かれている立場を理解していない。
「今の話は一体何なの? あれはやはり本当に私のことなの?」
「君のことだよ、【白】のオランピア。ああ……手から血が出てるね」
そして傷ついた。心だけでなく、こんなふうに指先も。
隠れて身を縮こまらせ屈辱に震えている間、きつく手を組んでいたのだろう。彼女の真っ白な指に自らの爪痕が残り、紅い血が滲み始めていた。
僕はそんな彼女の手をとり、そっと舌先で血を舐め取る。
「……!?」
華奢な躯が強張った。まるで、僕に応えるように。
「よ、縁……っ」
「じっとして、ブラウスが血で汚れる」
全身を小さく震わせ、耳朶まで薄赤く染め、彼女は耐えていた。そんな顔をしたら、どんな男だって非道い真似をしたくなる。自分のために足を開かせ、声を上げさせたくなる。
もっとも、これは決して意地悪なんかじゃない、手当てなのだ。彼女の指が血で染まっているから、舌を這わせているだけのこと。
ああ、羞恥に悶える表情の何と愛しいことだろう。やはり彼女のこんな姿を他の男に見せてはならない。
今夜だ。
今夜───彼女を連れ出そう、あそこへ。
誰にも見られない場所へ、誰にも聞かれない場所へ。
そうして、この僕がもっと非道い真似をするのだ。
彼女がどんな声を洩らすか思い描くだけで、今この瞬間に抱いてしまいたくなる。
【紫】の僕は何も悪くない。
悪いのは───【白】である君だ。
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