彼女はそう言って、既に散り始めた桜を愛しげに見上げた。
今年の春は晴天続きで、薄紅の蕾が綻び始めたかと思っている間に満開になってしまった。
その上、今夜は風も強く既に夜気が湿り気を帯びている。
さっき聞こえた低い地響きのような音が気のせいでなければ、雷も来るだろう。
明日、非番の彼女は今夜から僕の部屋に泊まることになっている。
家庭教師のアルバイトを終えて落ち合い、今はアパート近くの桜並木を眺めているところだった。
時折吹き抜ける荒々しい風が、彼女の髪とリボンを大きく揺らす。
僕はそんな嵐の予兆から彼女を守りたくて、ずっと肩を抱いていた。
制服姿の彼女には人目のあるところではなかなか触れにくいから、着替えて来てくれて良かったと思う。
もっとも、その人目を盗んでほんの一瞬だけ唇を奪うのも楽しみではあるが。
去年の僕はこの桜の下で独り考えていた。自分に来年の春は───あるのだろうか、と。
志半ばで命を落とすことなど出来ないと自分に言い聞かせながらも、死の覚悟と恐怖はずっと僕の身体に絡みついていた。
はにかむように目を細め、彼女は小さく僕の肩先に頭を預けた。
言葉にするつもりはなかったのに、僕の心の裡を彼女が見透かしていたことに驚いた。
彼女に口付けようとしたその時、雨粒が頬を打った。
僕は着ていたコートを脱ぎ、彼女の頭に被せようとした。すると彼女は小さく身を捩ったのだ。
彼女のこんな時の強情さは、恐らく死ぬまで治らないに違いない。 僕の不治の病のように。
僕は愛しい恋人をぐっと腕の中深く抱き込み、二人でコートを羽織ることにした。
一瞬、身動いで頬を染めたものの、彼女は小さく頷いて歩き出す。
アパートはもう見えていて、走るべきかも知れない。
でも不思議なことに僕達はひどくのんびりと歩いていた。お互い、急かすような空気ではなかった。
瞬く間に勢いを増した雨が、桜の花を散らしてゆく。
鈍色と薄紅色の靄の中、濡れた桜がより一層強く匂い立つ。
身を寄せるようにして無言で歩く彼女の体温が、甘い湿り気となって僕を襲う。
いっそアパートなんて永遠に辿り着かなければいい───そう願ったものの、すぐに思い直した。彼女の躯を冷やしてはいけない。
そうして火照った彼女の白い肌に、薄紅色の花を散らすのだ。
様々な場所に、数え切れないくらい、刻むのだ。
恋という不治の病が悪化してゆくだけの、この僕は───夜が終わるまで彼女を愛さなければ発作がおさまらない。