汀 紫鶴 編

「さぁ着いたよ。目隠しを取ってあげよう」

僕は耳元で囁き、彼女の瞼を覆っていた手巾をゆっくりとほどいた。
すると彼女はこわごわと目を開け───そのまま言葉を失う。

「紫鶴さん、ここ……!」

愛しい恋人の頬が喜びと興奮に紅く染まる。
瞳は真ん丸に見開かれ、瞬きすら忘れて見入っている。

良かった。
こんな表情を見せる時は、かなり気に入った証拠なのだ。

───ここはとある料亭の秘密の離れ。
庭には見事な枝垂れ桜が咲き誇っていて、座敷で静かに花見酒が出来る。
僕は彼女を驚かせたくて、わざわざ目隠しまでして手を引いて、ここまで連れて来たのだ。

「見事だろう? どうしても君と二人きりでお花見したくて」

彼女は気恥ずかしそうに数度瞬いた後、僕の手を取った。

「……有難うございます」
「流石の僕でも今夜、ここを押さえるのは難儀だった。向こう半年分の印税が吹き飛んだ」
「え!?」
「嘘だよ。この料亭はずっと贔屓にしてるからね、快く僕の頼みを聞き入れてくれた」

印税の話は本当に冗談だが、女将にからかわれたことは黙っておこう。

『まぁ、汀先生が可愛い金魚さんを飼い始めたという噂は本当でしたか。
桜の季節の、しかも望月の夜にあの離れを一晩貸し切らせてくれなんて、貴族院のお殿様でもそんな我が儘は仰いませんけどねぇ』
女将の言葉に、僕はただ苦笑しただけだった。

───飼っているのだろうか。もしかしたら飼われているのではないだろうか。
僕を一途に愛し、優しく甘やかしてくれるファム・ファタルに。

「でも……嬉しいです。
私、桜は大好きですが、この時期って何処も人が多くてゆっくり眺めていられないでしょう? 
こんな見事な枝垂れ桜を独り占め……いえ、二人占め出来るなんて」
「今夜は、少し早いお祝いも兼ねているんだ」

僕は予め用意されていた酒を盃に注ぎ、彼女に向けた。

「お祝い……ですか? 何かありました?」
「もうすぐ、お姫様があのアパートにやって来て一年になる。
夕暮れ時、可愛い子が歩いて来たと思ってお茶に誘ったら物凄い軽蔑の眼差しを向けられた、あの日から」
「あれは!」
「蛇蝎の如く疎んだ男の恋人になった気分は?」

彼女はばつが悪そうに俯いた後、小さく唇を尖らせた。

「……お祝いの夜に、そんな意地悪なことを言わないで下さい。
初めの頃、色々と……その、失礼な言動があったことは認めます」

決して彼女に意地悪をしたいわけではない。
だが、拗ねたり泣いたりする彼女の表情がどうにも愛らしくて、ついつい苛めてしまうのだ。

「この枝垂れ桜の樹齢は二百年らしいよ。僕もそれくらい永く……君を愛せるといいんだけど」

彼女は、言葉を探すように花を見遣った。

冗談扱いされるだろうか。
僕としては至って大真面目な発言だったが。

少し待っても言葉が返らないので、僕は盃に酒を注ぎ足した。
その瞬間、強い風が吹き抜けて薄紅の花びらが無慈悲に散る。

「おや」

そのうちの一枚が、盃に落ちた。
それに気付いた彼女が、興味深そうに凝視めている。

「お酒を飲み干すのは無理でも、この桜に口付けるくらいはしてみる?」

彼女は頷き、盃に唇を寄せた。
そしてひどく厳かな表情で薄紅の花弁に口付ける。
こんな聖女のような恋人の、もう一つの姿は僕しか知らない。

「では今度は……その唇を味見させておくれ」

抱き寄せると、桜の香りに混ざり、確かに甘苦い撫子のそれが漂う。
彼女は僕との逢瀬の時だけ、この香りを纏うことにしたようだった。

「……先程の件ですが、是非、二百年愛して下さい。私も愛します」

恥じらいつつも、真摯な眼差しを僕に向ける。

「嬉しいな、そんなふうに言ってもらえて。その言葉を忘れないようにね」

深く、ゆっくりと唇を味わいながら、ふと悪戯を思いつく。

「また目隠しをしてあげようか」
「……そんなことをしたら、桜が見えなくなってしまいます」
「桜なの? 僕を凝視めてはくれないの?」

彼女は更に恥じ入り、深く俯いてしまう。

「一晩中ずっと……僕から目を逸らさないと約束出来るなら、塞がずにおくよ」

愛しい恋人が困惑して答えに迷っている間、僕は再び盃を干した。

二百年でも、千年でも。
この肉体が朽ち果て、魂だけになっても───僕は彼女に恋い焦がれるに違いない。
そう心の中で笑いながら。