僕は耳元で囁き、彼女の瞼を覆っていた手巾をゆっくりとほどいた。
すると彼女はこわごわと目を開け───そのまま言葉を失う。
愛しい恋人の頬が喜びと興奮に紅く染まる。
瞳は真ん丸に見開かれ、瞬きすら忘れて見入っている。
良かった。
こんな表情を見せる時は、かなり気に入った証拠なのだ。
───ここはとある料亭の秘密の離れ。
庭には見事な枝垂れ桜が咲き誇っていて、座敷で静かに花見酒が出来る。
僕は彼女を驚かせたくて、わざわざ目隠しまでして手を引いて、ここまで連れて来たのだ。
彼女は気恥ずかしそうに数度瞬いた後、僕の手を取った。
印税の話は本当に冗談だが、女将にからかわれたことは黙っておこう。
『まぁ、汀先生が可愛い金魚さんを飼い始めたという噂は本当でしたか。
桜の季節の、しかも望月の夜にあの離れを一晩貸し切らせてくれなんて、貴族院のお殿様でもそんな我が儘は仰いませんけどねぇ』
女将の言葉に、僕はただ苦笑しただけだった。
───飼っているのだろうか。もしかしたら飼われているのではないだろうか。
僕を一途に愛し、優しく甘やかしてくれるファム・ファタルに。
僕は予め用意されていた酒を盃に注ぎ、彼女に向けた。
彼女はばつが悪そうに俯いた後、小さく唇を尖らせた。
決して彼女に意地悪をしたいわけではない。
だが、拗ねたり泣いたりする彼女の表情がどうにも愛らしくて、ついつい苛めてしまうのだ。
彼女は、言葉を探すように花を見遣った。
冗談扱いされるだろうか。
僕としては至って大真面目な発言だったが。
少し待っても言葉が返らないので、僕は盃に酒を注ぎ足した。
その瞬間、強い風が吹き抜けて薄紅の花びらが無慈悲に散る。
そのうちの一枚が、盃に落ちた。
それに気付いた彼女が、興味深そうに凝視めている。
彼女は頷き、盃に唇を寄せた。
そしてひどく厳かな表情で薄紅の花弁に口付ける。
こんな聖女のような恋人の、もう一つの姿は僕しか知らない。
抱き寄せると、桜の香りに混ざり、確かに甘苦い撫子のそれが漂う。
彼女は僕との逢瀬の時だけ、この香りを纏うことにしたようだった。
恥じらいつつも、真摯な眼差しを僕に向ける。
深く、ゆっくりと唇を味わいながら、ふと悪戯を思いつく。
彼女は更に恥じ入り、深く俯いてしまう。
愛しい恋人が困惑して答えに迷っている間、僕は再び盃を干した。
二百年でも、千年でも。
この肉体が朽ち果て、魂だけになっても───僕は彼女に恋い焦がれるに違いない。
そう心の中で笑いながら。