鴻上 滉 編

「滉、見て! あそこにも桜があるわ」

彼女は嬉しそうな声を上げ、歩みを速めた。

アパート近くの桜の木を探しながらお月見をしましょう───そんなことを彼女が言い出したのは昨夜、ホールでのことだった。

一年前、彼女がやってきたばかりの頃はみんなで巡回に出ていたが、最近はもうすっかり慣れて独りずつになった。
だから、仕事がある日は朝と夜しか彼女の顔が見られない。

彼女は朝食はもちろん、友達などの誘いがなければ夕食もアパートでとるから、
俺も何となくその時間にホールをうろついてみたりする。
そのままお茶を飲んだり、彼女の部屋に行ったりすることもあるが、
昨夜は目を輝かせながらそんな提案をしてきたわけだ。

「探してみると結構あるもんだな。花が咲いてないとただの枝だからいつも素通りしてた」

もうすぐヤナカの墓地近くだろう。
肝試しには少し早い気もするが、彼女は桜探しに夢中になっていて、引き返す気配はない。

「ウエノ公園の桜ももちろん素敵だけれど、のんびり眺めていられないものね」
「来年はやっぱりフクロウの花見は行かないことにする」
「どうして!? 楽しかったじゃない! また来年もやろうって猿子さんも朱鷺宮さんも言っていたわよ?」
「いや、俺は……」

昨年は、盃一杯だけ飲んで早々に退散したとは言わない方がいいだろうか。
それが何故今年は最初から最後まで居座ったかといえば、彼女のためだ。
酔った───正確には酔ったふりをして彼女に何かしそうな輩から、守らなければならない。

「それとも……滉は楽しくなかった?」

心配そうに問われて答えにつまり、目の前の桜を見上げる。
一年前の俺は、みんなで賑やかにはしゃぐなんて気持ちには到底なれなかった。
そもそもあのアパートは俺の居場所ではないと思っていたし、必要最低限の言葉と行動だけで暮らしていた。

「楽しくないわけじゃ……なかったけど」

そう、俺は彼女を独りにしないために参加しただけで、別に他の誰かと交流を深めたかったわけじゃない。
つい、すすめられるまま酒も呑んでしまったし、
自分にしては珍しく喋っていた気もするが、きっと馬鹿騒ぎの毒にやられただけだ。

「そうよね、だってとても楽しそうに見えたもの。良かった、来年もまたフクロウのお花見しましょうね。
今年は食べ物がすぐになくなってしまったから、来年は三倍くらい稲荷寿司を作るわ。良かったら滉も手伝ってくれない?」
「……分かった」

俺はあの台所で彼女の横に立ち、甘辛く煮た油揚げにせっせと酢飯をつめている自分を想像した。

───悪くない。
あの苛つく一族に蔑まれ、人間扱いされなかった俺にそんな日が来るなんて。

「そうだわ、今夜だってお花見のお団子を急いで作れば良かった。気付かなくてごめんなさい」

真面目な顔で詫びた彼女に、俺は笑いそうになった。
嘲笑じゃない。尊敬と感動だ。
自分と全く違う世界で生きて来た眩しい存在は、こうして俺を笑わせたり悩ませたりして、日々刺激を与えてくれる。
俺はそんな眩しさに時々目を細めながらも、日々愛しさを募らせてゆく。

「だから来年はちゃんと作るわ。今年だけでは桜は回りきれないでしょうし、
来年こそはお団子を持って、そうね今年はヤナカだったから来年はコイシカワとかユシマの方とか」

彼女は大真面目だ。
俺はまた笑いそうになり、慌てて堪えたが気付かれてしまった。

「お団子のことがそんなにおかしい?」
「来年は一緒に花見団子を丸めるよ」

彼女がぱっと顔を赤らめ、小さく後ずさった。

「ど、どうしたの、いきなり? もちろん、そうしてくれたらとても嬉しいけれど」
「何となく、作ってみたくなったんだ」
「さっきよりも機嫌が良さそうね? 満月のせい? それとも桜のせい?」
「そんなところ」

こんな時、絶対に彼女は『自分』は選択肢に入らない。
謙虚なのか鈍いのか、それともやはり箱入りだからだろうか。

そう今、俺はとても機嫌がいい。
見事な満月と、咲き誇る桜の下に立つ恋人を眺めることが出来て。

去年の俺は、こんなに大切なものなんてなかった。
去年の俺は、独りだった。
でも今年は───これからは違う。

「なら、もう少し歩いてみる? ここもなかなかの枝振りで名残惜しいけれど、他にも……」

歩き出そうとした彼女を抱き込んで、口付ける。
夜気に少し冷たくなった唇が熱を取り戻すまでは、触れていようと思った。