彼女は嬉しそうな声を上げ、歩みを速めた。
アパート近くの桜の木を探しながらお月見をしましょう───そんなことを彼女が言い出したのは昨夜、ホールでのことだった。
一年前、彼女がやってきたばかりの頃はみんなで巡回に出ていたが、最近はもうすっかり慣れて独りずつになった。
だから、仕事がある日は朝と夜しか彼女の顔が見られない。
彼女は朝食はもちろん、友達などの誘いがなければ夕食もアパートでとるから、
俺も何となくその時間にホールをうろついてみたりする。
そのままお茶を飲んだり、彼女の部屋に行ったりすることもあるが、
昨夜は目を輝かせながらそんな提案をしてきたわけだ。
もうすぐヤナカの墓地近くだろう。
肝試しには少し早い気もするが、彼女は桜探しに夢中になっていて、引き返す気配はない。
昨年は、盃一杯だけ飲んで早々に退散したとは言わない方がいいだろうか。
それが何故今年は最初から最後まで居座ったかといえば、彼女のためだ。
酔った───正確には酔ったふりをして彼女に何かしそうな輩から、守らなければならない。
心配そうに問われて答えにつまり、目の前の桜を見上げる。
一年前の俺は、みんなで賑やかにはしゃぐなんて気持ちには到底なれなかった。
そもそもあのアパートは俺の居場所ではないと思っていたし、必要最低限の言葉と行動だけで暮らしていた。
そう、俺は彼女を独りにしないために参加しただけで、別に他の誰かと交流を深めたかったわけじゃない。
つい、すすめられるまま酒も呑んでしまったし、
自分にしては珍しく喋っていた気もするが、きっと馬鹿騒ぎの毒にやられただけだ。
俺はあの台所で彼女の横に立ち、甘辛く煮た油揚げにせっせと酢飯をつめている自分を想像した。
───悪くない。
あの苛つく一族に蔑まれ、人間扱いされなかった俺にそんな日が来るなんて。
真面目な顔で詫びた彼女に、俺は笑いそうになった。
嘲笑じゃない。尊敬と感動だ。
自分と全く違う世界で生きて来た眩しい存在は、こうして俺を笑わせたり悩ませたりして、日々刺激を与えてくれる。
俺はそんな眩しさに時々目を細めながらも、日々愛しさを募らせてゆく。
彼女は大真面目だ。
俺はまた笑いそうになり、慌てて堪えたが気付かれてしまった。
彼女がぱっと顔を赤らめ、小さく後ずさった。
こんな時、絶対に彼女は『自分』は選択肢に入らない。
謙虚なのか鈍いのか、それともやはり箱入りだからだろうか。
そう今、俺はとても機嫌がいい。
見事な満月と、咲き誇る桜の下に立つ恋人を眺めることが出来て。
去年の俺は、こんなに大切なものなんてなかった。
去年の俺は、独りだった。
でも今年は───これからは違う。
歩き出そうとした彼女を抱き込んで、口付ける。
夜気に少し冷たくなった唇が熱を取り戻すまでは、触れていようと思った。