逢いたい。
初めてそう感じたのはいつのことだったろう。いまにして思えば、その瞬間こそが恋情への鳥羽口だった。
(逢いたい)
あてどなく放たれ、けれども強い――そう、祈りに似ている。
(……逢いたい)
見回せば城の周囲が一望できる塔の上で、息こそ白くはならなかったが、外気の肌あたりはひんやり冷たい。天上に縫い止められたビロウドの宵闇、点々と散りばめられた星々が手に届きそうなほど近くに見えた。眼下にはふっくらと生い茂る蒼い森、夜気に点々と光る小路。桜色に染まる花壇さえ、いつも同じ表情であり続ける。
ここは、カルミナ。変わらぬ真実が集う夜。
「アダマスさん?」
身じろぐ衣擦れと共に、心地よい声がした。彼女は草の上にしゃがみ込み、細かなまばたきを繰り返している。
「ここ……カルミナ?」
頷き返すと、彼女はことりとちいさく首を傾げた。
「わたし、いつ……?」
そう言って重たげな目許を擦ってから、ひとつ、ちいさな欠伸を漏らす。その仕草がひどく愛らしくて、そっと腕の中へと引き寄せた。
「アダマスさん」
以前は緊張に縁取られていた音が、いまは驚くほど甘く耳朶をくすぐる。
「なんだか、びっくりしました」
囲い込んだ腕を緩めると、はにかんだ笑顔が見えた。
「確か、眠る前に……アダマスさんのことをたくさん考えていて」
「そうか」
「すごく逢いたいなって、思ってたんです」
「ああ、俺もだ」
もう一度きつく抱きしめて頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細め、体の重みをこちらへそっと預けてきた。微かな身じろぎは、俺の胸へ頬を寄せる仕草だとわかって、いっそう愛おしさが溢れてくる。
(他の男はこういうとき、いったいどうしているのだろう?)
大きく深く息をついてから、彼女のうなじ辺りへ顔を埋めた。もっともっと全身で彼女を感じて、コップの淵いっぱい、限界まで満たされたい。でないと、彼女の信頼をいとも簡単に壊してしまえそうな危うい自分が首をもたげてくる。
(愛おしい、俺だけのものにしたい……全部、もっと、欲しい)
水位がいきなり跳ね上がって、溢れそうになる。息をすることさえ辛くなる。ああそうか、これが溺愛というものか、などと頭の端っこで考えても、一向に熱が引いてくれない。
「ダメだ……どうしようもない」
「アダマスさん?」
どうしたの、と言いたげな桜色のくちびるが見えて、とうとう、熱が堰を切った。
「俺がいいと言うまで目を閉じていろ」
「目……? こう、ですか?」
ちらりとも疑わず、素直に目を閉じる彼女が可愛らしく、憎らしい。
(俺の気も、知らないで)
ほんの少し意地の悪い気持ちが込み上げて、強引に腰を引き寄せた。
「きゃっ」
それでも、目蓋は閉じたまま。俺にすべてを委ねようとする姿は、この上なく愛おしくて。
俺もまた、己のすべてを彼女に全部委ねてしまいたくて。
自然とあおのいた彼女のおとがいをすくいあげるように、口づけた。
「ん……」
まるで、氷が溶けてゆくように。
特別な皮膚を差しだし、お互いがゆるゆると同じ温度になり、境目を見失って、心地よさに目眩さえ覚え――それから。
「あれ……?」
戸惑いを含んだ彼女の声にハッとしてまばたく。とたん、膨大な光りが目許になだれこんだ。
「ここは……」
突然の刺すような痛みに、思わず眉を顰めた。いつしかカルミナはかき消え、代わりに現れたのは見慣れたアパートの一室。
ベッドに沈み込む俺の、ちょうど胸のあたりに彼女の頭があった。身を委ねるように重なっていて、その重みが心地よい。
(では、さっきのは夢だったのか?)
確かに、カルミナは消滅したはずだ。仮に存在していたとしても、こちらから訪ねる術はない。
(だが、しかし……)
改めて思い返しても、ひっそり佇む夜気の気配や、踵を弾く石畳の固い音まで鮮明に思い出せる。ただの夢とは到底思えない。
「いったい、なにが」
どうしたんだ、と言いかけたとき、彼女があっ、とちいさく声を上げて体を起こした。
「そうだ……思い出しました!」
溢れる光の中で、彼女は目をまんまるくしてこちらを見ている。
「夜に電話をもらって……それでわたし、慌ててここへ来たんです」
「電話?」
「覚えてないんですか? 疲れた、俺はもうダメだって」
「……俺がそう言ったのか?」
「そうです! だからわたし、すごくビックリして……」
「ああ。それでようやく、合い鍵を使ってくれたんだな」
パッと、彼女の頬が赤くなった。
「だ、だって……なにかあったんじゃないかと思って、心配だったんです」
「なるほど。今後俺はもう少し、危うい男を目指したほうがよさそうだな」
「もう! からかわないでくださいっ」
ちいさな拳が、ぽかぽかと俺の胸を叩いた。
「本当に、とっても心配したんですから」
ベッドに寝転んだ俺を、心細そうな面持ちで彼女が覗きこんでくる。
かつては俺も、こんな顔をして彼女の目覚めを待っていたのかもしれない。
だが、夜はもう明けた。
彼女が夜の帳を引き、扉を開けて、朝日をくれた。
新しい人生の幕を上げてくれた。
「ありがとう」
嬉しくなって笑うと、彼女は頬に赤みを蓄えたまま、僅かにくちびるを尖らせた。
「……ずるいです、アダマスさん。そんな顔をされたら、全部許してあげたくなっちゃいます」
「許してはくれないのか?」
「もう……」
まだ拗ねている彼女を腕の中に引き寄せて、優しく頭を撫でてやる。
「ウソの電話をしたわけじゃない。あまりに疲れたから、おまえの声を聞きたくなって……そうだ」
声が聞きたい。顔が見たい。カルミナにいたころよりずっと近くにいるはずなのに、こんなにも逢えないなんて――そう思ったのだ。
「逢いたかった」
「……わたしもです」
ついさっきカルミナで交わした会話をもう一度、今度は朝日の中で繰り返した。
「起こしたくない、だけど……こんなに近くにいるのに逢えない、逢いたいって思ったんです」
「俺もだ」
「え……?」
「眠っているおまえを見つめて、いつもそう思っていた」
「アダマスさん……」
「相思相愛だな」
瞳を間近に見つめて笑むと、彼女は戸惑いながらもちいさく頷く。じわじわと水位が上がるのを感じながら頬に手を伸ばしたところで、申し合わせたように目覚まし時計のアラームが鳴った。
「あ……わたし、朝ご飯作りますね」
現実に引き戻されて急に照れくさくなったのか、彼女はそそくさと立ち上がった。
「疲れてもうダメなひとは、もうちょっと寝ててください。できたら呼びますから」
いたずらっぽく笑ってそう言うと、キッチンへ向かう。
朝の柔らかな光が差し込むワンルーム、申し訳程度に据え付けられたキッチンできびきび立ち働く彼女の背中をぼんやりと眺めた。
「料理、最近お母さんに教わってるんです。もっといろいろできるようになりたくて」
独り言に近い口ぶりだったので、ただ、黙って聞くことにする。
「ちょっと調べてみたんですけど、いま日本食がブームだから、お味噌とお醤油は向こうでもけっこう売ってるそうなんです」
心地いい声音と共に湯だつ音、まな板の軽く叩かれる音が、優しく部屋の中を満たしていく。
(彼女が卒業するまであと一年……か)
この光景が、一日も早く日常になったらいい。そう思う一方で、このまま永遠に時が止まってしまえばいいのにと思う。
相反するどちらの思いも、本物だ。恋慕はいとも簡単に、言動のすべてを支離滅裂にさせる。
「……そういえば」
ふとした俺の呟きに、彼女が振り返った。
「いま、なにか言いましたか?」
彼女はいつだって、ささやかな、それでいて大切な言葉を残らずすくい上げてくれる。そのことにくすぐったい甘さを覚えながら、続けた。
「ああ。もうひとつ思い出した。おまえに、一度言ってみたかった言葉がある」
「なんですか?」
濡れた手をふきんで拭いながら、ちょこんと首を傾げてこちらを見つめる彼女に、俺はありったけの笑顔を差し出し、告げた。
夢のような夜のひとときを終え、新しい光を迎え入れるための、呪文を。
「おはよう」
嬉しそうに相好を崩した彼女の胸元で、朝日を受けたペンダント――恋する夜の宝石が、静かにちかりと輝いたように見えた。