――携帯が着信を告げる。

伊勢源太郎は通話の切れた携帯を片手に苦虫を噛み潰した。
これは今に始まったことではない。
当初から狐邑怜の態度は目に余るものがある。
だが、彼は類稀な才を持つ、替えの利かない存在だ。
最低限の責務を果たしている間はあまり厳しいことも言えない。
「彼も本来は、ただの高校生だからな……」 
そう嘆息を洩らした直後、手の中の携帯が着信を告げた。
一瞬、狐邑が心を入れ換えて謝罪を寄越したのかと考える。
だが、彼はそこまで殊勝な少年ではない。
ディスプレイを確認した伊勢は、深く息を吐いてから通話ボタンを押す。
「伊勢です。……はい。了解しました」
相手からの用件は、伊勢の予想通り『報告』の催促だった。
あくまで事務的に返答するが、最後にひとつだけ注文をつける。
「そちらへ伺う前に研究所に立ち寄って構いませんか。
先程『プロジェクト被験者の経過観察を頼みたい』と、
住吉から連絡が――はい。感謝します」
電話が切れたのを確認して、今度は安堵の息を吐く。
伊勢は、寒名市市役所にある日本地力エネルギー研究所の人間だ。
『Japan Soil Energy Institute』、通称【JSEI】と呼ばれる組織は、一般に公開されていない様々な秘蹟にも関わっている。
幾つものゲートを通り抜け、伊勢はひとつの研究室に向かった。
「あ、師匠ー!」
ドアが開いた途端、室内から無邪気な声が上がる。
満面の笑みを浮かべてまとわりつく青年の頭を、伊勢は乱暴にわしわしと手のひらで撫でた。



「調子はどうだ、志郎」
「そりゃもうバッチリに決まってるって!
カリキュラムは全部終わったし、実戦訓練でも結果出したし!」
狗谷は、うれしげに笑いながら伊勢を見上げた。
が、不意にがっくりと肩を落とし、残念そうに眉を寄せる。
「……なのに、みーんな『外に出るのはまだ早い』って言うんだぜ?
何が問題だってのかなぁ……」
仕草ひとつひとつが幼く見えるのは、狗谷が感情を隠さないためだ。
だが、その内面は年相応まで成熟している。
我儘を言う子供とは違うと知っていながら、伊勢はこういうとき、どうしても宥めるような言葉しか紡げない。
「面倒な調整が残ってるだけさ。だが、そろそろ準備も終わるはずだ」
子供を慰めるような口調に、狗谷は小さく噴き出す。
「『そろそろ』って……。師匠、いつもそればっかじゃないか」
「む。すまん」
素直に謝る伊勢に、狗谷はまた笑顔を取り戻した。
伊勢は反対に『仕方ないなあ』と許されているような気分になる。
「もう、いつになったら俺の姫に会えるのさ?
待ち遠しくて待ち遠しくて死んじゃいそうだよ!」
青年は期待に瞳を輝かせながら、口調だけは不貞腐れたように訴えた。
その様子を複雑な心境で眺めつつ、伊勢は言葉を選んで答える。
「美保所長の許可が下りれば、すぐだ。
俺からも志郎のことを進言しておこう」
「わ、マジで!?」
「……ああ。だから、もう少しだけ大人しくしていてくれ」
諭すような言葉に、狗谷は何度も何度も頷いた。
「わかった! ありがと、師匠! 恩に着るー!」
伊勢は、ぎこちない笑みを彼に返しながら、その部屋を後にする。
約束はしたものの、実際のところ、伊勢にも『時期』は読めなかった。
狗谷の存在には彼が意識する以上の重要性が絡んでくる。
すべては【JSEI】所長の判断次第だった。

「失礼します」
所長室に入ると同時、伊勢の顔から表情が消える。
鉄面皮が見る先に、【JSEI】所長――美保宗一の姿があった。
「今日もご苦労様、伊勢くん」
伊勢は浅く顎を引いて応えると、すぐに言葉を紡ぎ出した。
「まず、【H.E.R.Oプロジェクト】の進展に関してですが」
正確には『Human Energy Revolution Optimize』だ。
話を続けようとする伊勢に対し、美保はひらひらと片手を振ってみせる。
「ああ。それは、いいよ。どうでも」
ゆったりとした椅子に腰掛ける美保は、薄い笑みを貼りつかせて言う。
「ヒーロー君の様子は住吉にレポートしてもらうから」
「……了解です」
伊勢は反論を呑み込んで頷いた。
余計な口出しをしても事態は不利益しか生まないだろう。
それは、彼自身にとって、狗谷にとって、仲間たちにとって、だ。
「セントラルタワー内の警備は通常レベルを維持しています。
天意の動きにも目立った変化は見られませんが……」
伊勢はありきたりに聞こえる口調で業務報告を続けた。
語られる内容は表立った【JSEI】の活動のみならず、彼らが水面下で動かしている、様々なプロジェクトにも関わるものだ。
「最後に、先日の一件は……」
伊勢は僅かに、美保では察せぬ程度に、顔を歪めた。
「計器その他に異常は見られず、こちらの想定した範疇を越えていました。
あれが事件を起こすことになるとは研究者らも予想していなかった模様です。
ですが、その存在が公になる前に、我々で処理を終えています」
「うんうん。それは伊勢くんの功績だねぇ」
「…………」
称賛の言葉を向けられるが、伊勢は複雑そうに押し黙った。
そんな彼の反応に構わず、美保はため息をついて言う。
「最近、何かと物騒で困っちゃうよねぇ。
僕の可愛い沙弥まで悪い影響を受けないといいんだけど。
あ、電話でもしてみようかなぁ?」
「……では、薬師衆の訓練がありますので」
半ば独り言と化した呟きに答えず、伊勢は静かに頭を下げる。
美保とのこんなやりとりはいつものことなのだ。

ひとりきりの研究室で、美保は薄く笑っていた。
解明しきれない事件は多いが、そう悪いことばかりでもない――。