――このまま貴方の虜となって、もう後戻りができないのだとしても、私は……。

 朝方、ひとりで遅い夕食を取っているとどこからともなくシュウさんが姿を現した。
「シュウさん? 珍しいですね、こんな朝方に……」
 驚いて思わずスープを掬っていたスプーンを止める。
「まあね」
 そっけなく言うとシュウさんは私の向かい側の席に腰を下ろした。なんだか機嫌が凄く良さそうに見えるのは気のせいだろうか? 小さく鼻歌のようなものが聞こえてくる。
「……あの?」
「なに?」
「どうか……したんですか?」
 恐る恐る聞くと、シュウさんは机に肘をつき、歌いながら物憂げな顔で私の顔をじぃっと覗き込んで来る。返事はない。
「あの?」
「――五月蠅い。マーラーの交響曲第四番、ト長調第四楽章だ。タイトルはあんたが調べなよ」
 意味深な言葉に私は小首をかしげる。残念なことにクラシックには疎い。教会で歌われる聖歌だったらちょっとくらいは分かるけど。そんなことを思いつつ再びスプーンを動かしだすと、不意にシュウさんが口を開く。
「あんたさ……俺のことが世界で一番大好き、なんだって?」
「えっ!?」
 突然の発言におどろいて、思わず手にしていたスプーンを取り落してしまう。渇いた金属の音が静かなダイニングに響いた。
「図星か」
 シュウさんは至極冷静に言い放ち、むしろ私の動揺を面白そうに眺めている。
「な、なんですか……いきなり……」
 私は慌てふためきつつ、机の下に落ちたスプーンを拾うべく立ち上がる。クロスをめくってみると、落としたスプーンは丁度シュウさんの足元に転がっていた。彼と面と向かう必要がないことを考えたら、スプーンを落とすタイミングはバッチリだったろう。
「ん、っと……」
 それを取り上げるべく机の下に潜り込む。すると、机の上からシュウさんの声が聞こえてくる。
「なにをやってるんだ」
「え? いえ、その……スプーンを拾おうとしているだけで……」
 しどろもどろで言いながらそれに手を伸ばす。と突然……。
「きゃっ!?」
「くくくっ……」
 あろうことかいきなりその手をシュウさんの足に踏んづけられた。ハッとして見上げると、シュウさんと目がかち合う。彼はクロスをめくり、広げた足の間から私の顔を見下ろしていた。
「話がまだ済んでないだろ? 拾っていいだなんて誰が言った」
「っ……」
 容赦のないその声音に、思わず私は身じろぐ。すると、シュウさんは私の手をなおもきつく踏みつけてくる。
「い、いたっ……」
「当たり前だ。痛くしてるんだから」
 機嫌がいいと思ったのに、この仕打ちはどういうことだろう? 思いながら唇をかみしめるとシュウさんが続ける。
「足を退けてほしければ、そのままこっちに来い」
「え?」
「聞こえなかったのか? そのまま……俺の足の間から顔を出して上がって来いって言ってるんだ」
「っ……で、でも……」
 足の間から身体を出せだなんてそんなこと恥ずかしくて出来ない。そう言おうと思った途端、なおも強く手を踏まれた。
「あんたは俺に逆らって……こうして痛い目を見るのが好きなんだっけ? さすがは筋金入りの変態女だな?」
「そんな……ちが……!」
「違う? それならとっとと俺の言うことを聞けば?」
 逃げ場を無くして追い込んで来る、彼のこの手口に私は何度屈服させられたことだろうか。悔しいとは思う。けれど――逆らえない。抵抗したところで彼は、最終的には私を思い通りにしてしまう。
「っ……」
 諦めの気持ちで、私は言われたとおりにクロスから顔を出すべくシュウさんの足に手を掛ける。そのまま、ぶつからないように彼の足の間に頭を差し入れる。
「くくくっ……酷い格好だな」
「それは、シュウさんがやれって……!」
「まあ、確かにそうだな。けど、それをやろうって決めたのは他でもないあんた自身だろ?」
 シュウさんはにやりと口元を歪めつつ、私をいざなう。
「強情だな。あんたが……俺のこと好きで好きでたまらない、そう聞いたから……こうさせてやってるっていうのに」
「そんなこと……どこで……」
 思わず声が震えてしまう。心臓が騒がしく暴れまわっている。
「顔真っ赤。図星なんだろ? どうせ事実なんだから、俺がそれをどこで見聞きしようがそんなことはどうだっていいはずだ。さあ、もっとこっちに来いって」
 いつになく饒舌でなおかつ積極的な彼に私は戸惑いつつも従ってしまう。酷いことをされても、言われても、シュウさんが言うように私は……彼のことが好きなのだ。どうしようもなく……。だから、逆らえないのではなく、逆らわない。
「ほら、早く……こうして相手してやってるだけでも感謝して欲しいんだけど……」
「っ……」
 そんな私の心を見透かすように、シュウさんは先ほどよりもずっと優しげな声で、正面から言い聞かせるように囁いてくる。私はそれに躊躇いつつも、心のどこかでその優しく甘い声音を嬉しく思い、言われるがままになる。
「そうだ、もっとこっちにきなよ。ああ、俺の足の上に座れば?」
 身体を密着させ、擦り合わせながら狭い隙間を抜け出ていく。酷く恥ずかしいけれど、私は、シュウさんの足の上に乗りあがった。シュウさんの肩に手を掛け、向かい合わせの格好になる。
「くくっ……やればできるんじゃないか。なんだかんだ言って……はしたないことがあんたは大好きなんだ」
「っ……」
「反論する余地もないだろ? ほら……もっとはしたないことさせてやるよ。俺が世界中で一番好きなんだろ? その発言は悪くない。ご褒美だ……キスしてもいい」
「えっ……」
「怠いから……とっとと、キスしなよ。さあ……」
 焦れた様子でにシュウさんが、目を細める。
「んっ……。ああ、やっぱりいいな。あんたの匂い、そして……味……んんっ……」
 何度も何度も繰り返される口づけに、翻弄される。深さを変え、角度を変え……傍から見ればきっとどうにかなったと思われるに違いないのに、けれど私は拒否することができない。いや、違う……きっとこれは……。
 私が本当に望んでいることなのだ。
「シュウさん……」
「何?」
「……嬉しかったですか? それとも……迷惑でしたか?」
 ずっと気になっていたことをキスの合間に思い切って聞いてみる。すると、シュウさんが何を思ったのか、私の身体を抱え上げ、机の上に突き飛ばした。
「あんたは、この俺に何を言わせたいんだ? うざい」
「っ……ですよね……」
 分かりきった答えを敢えて聞くのも、私の本心が望むことなのだろうか? この人の辛辣な物言いが好きだから? すると、シュウさんは私の髪を掻きあげ、耳元にキスをしてくる。
「どうだっていい。そんなこと……好きだとか嫌いだとか……興味がない。けど……」
「強いて言うなら、俺はあんたの血に興味がある。あんたを求めてる。それはつまり……どういうことだか分かるだろ? 判断はあんたの好きにしなよ」
 意地悪そうなシュウさんの声に、身体の震えが止まらない。私はその言葉だけで満足だった。
「シュウさん、好きです……」
 胸の内を思わず吐露すると、シュウさんが笑う。
「くくっ……知ってる。ほんとあんたはエロい女だ。分かってる。あんたが本当に欲しいものは……そういえばそれがもらえると思ってるんだろ? 今日は気分がいい。だからあんたの望むままに、欲しいだけ……してやるよ」
 シュウさんが口を大きく開く気配を感じる。私は彼のキバが穿たれる瞬間を待った。鋭い先端が皮膚を探るようにそろりと動く。初めは遠慮がちに、しかしそれはすぐさま一気に私を貫いてくる。
「うう……」
 この感覚は本当にどう言葉にしていいのかいまだに分からない。痛みはある。けれど、それと同時に襲い来る身体中に広がる痺れのようなものを形容する言葉が見当たらない。
「はぁ……んんっ……イイ顔……はぁ……っ……」
「っ……」
 血を吸いあげられるたびに、叫びそうになってしまう。私は必死で口元を抑える。すると、シュウさんがくすりと笑う。きっと浅ましい感覚に身悶えていると勘違いされたのだろう。けれど、今はそんなことどうだっていい。間違っているというわけでもないのだから。
「従順なあんたなんか……物足りない、けど……今日のこれはご褒美だから……まあ許してやる」
「っ……」
 繰り返されるご褒美、という言葉……シュウさんはきっと、私に想われていることを満更でもなく思ってくれているという証拠だ。そう思うと堪らなく嬉しい。直接的な言葉を強請るのはきっと無粋な行為だ。彼が心の欠片のようなものをちらちらと見せてくれるだけでも私は、こんなにも幸せだ。
「さあ、今度はこっちだ」
 シュウさんの手がせっかちな様子で私の胸元を乱していく。いつもはなんにもしてくれないシュウさんのそんな様子に愛おしさがこみあげてくる。
 もう、すっかり私は彼に参ってしまっているのだ。自覚がある分、取りつく島がない。思いながら私はシュウさんの髪に指を絡ませる。そしてゆっくりと頭を撫でる。好きですと心の中で叫んだ。音楽好きなシュウさんには間接的な言葉のほうがしっくりとくる。
 すると、私の胸に埋めていた顔をふとあげてシュウさんがぽつりと言った。
「……あんたのこと、好きだ。ただし、俺に惚れてるあんたが好きなんだ。分かった?」
「っ……!!」
 あまりのことに放心してしまいそうになる。たまらなく幸せだと私は思わず顔を覆った。顔が熱い。欲しい言葉をもらえるだなんて、確かに最高のご褒美だと思う。
 どうやら私は身も心もすっかり、この気だるげな闇の貴公子に奪われてしまっているらしい。もう、後戻りはできないだろう。けれど……、

――もうそれでいいんじゃないかという気持ちで、私は思わず微笑んでしまった。