【紫ノ願イ】

 君は気付いているだろうか?
 私はまだここにいるということを。
 君は覚えているだろうか?
 私が無力で嘆くことしか出来ない男だったことを。

 君は私を、赦してくれるだろうか――?

「カンパネラ」
「キュイ?」

 ぽっかりと穴が開いた天井から月明りが木漏れ日のように私たちを照らしている。
 腕の中のカワウソの名前を呼べば、不思議そうな顔で私を見上げ、月明かりを瞳に灯らせキラキラと輝かせていた。
 愛らしい顔を撫でれば、気持ちよさそうにゆっくりと目を閉じる。無邪気で無垢なカンパネラ。お前は私の過去も私の心の奥底を知ってもなお、懐いてくれるのだろうか。
 それを知った時、きっと私の心にある深い悲しみの海で、お前は溺れてしまうだろう。そうなる前に、いずれ新しい飼い主がお前を大事にしてくれる。その時まで、優しい温もりを腕に抱いているとしよう。

「カンパネラ、私はいつまでこうしているのだろうな」
「キュキュイ」
「お前も早く私ではない飼い主の元へ行きたいだろうに」
「キュイキュイ」
「なんだ、意外と私の腕も悪くないって?」
「キュイー」
「それならいいんだが」
「キュイ!」

 とまあ、話しかけたところでカンパネラはわかっているのか、いないのか。ただ返事のタイミングは抜群だ。悪くない。

「お前がいなくなったら、また私は独りぼっちだからね。私もお前がいた方が嬉しいよ」
「キュキュイ!」

 孤独は慣れないものだと言うが、私は孤独でいる時間が長すぎた為か、その感覚は麻痺してしまっている。今なら千年の孤独が訪れようとも、寂しくはない。そんな些細な感情に振り回されるような時期はとうの昔に過ぎ去った。

 一つ、気付いたことがある。
 一人でいる時間が長すぎると、人間はいらぬことを考えるということを。何故、そんなくだらないことを考えているのだろうかと他人に言われてしまいそうな、どうしようもない内容だ。そして、そのうち自分がすべきことに疑問を持ち、躊躇いが生まれる。躊躇いは固い決心をも揺るがし、私を混乱させる。果たされるべき誓いの輪郭を曖昧にしてしまう、時間の恐ろしさ。正確に言えば、孤独の時間だ。
 何と面倒なことだろうか。何故今さら迷う。そんな気持ちは捨てたはずだろう。
 何故、人間は孤独に惑わされるのだろう。揺るがないと信じていた強い感情にすら染め上げようとする孤独の存在に、自分はやはり無力な人間なのだと思い知らされる。

「……困ったものだ。余計なことを考えるのは疲れるな、カンパネラ」
「キュキュイ?」

 こんな私を見たら君はどう思うのだろうか。
 笑う?
 呆れる?
 怒る?
 悲しむ?

 何だっていい。
 君の感情を再び、目の当たりにすることが出来るのなら。

 笑っていたら、私も一緒に笑おう。
 呆れていたら、肩をすくめてみせる。
 怒っていたら、君に許しを請うよ。
 悲しんでいたら、君の細い肩を抱きしめる。

 だが、もう君は――。

▼△▼

「あ、(リン)(ドウ)。今日差し入れでチーズケーキもらったんだけど食べる?」
「ああ、有難く頂くとしよう。実はそのケーキを今度買おうと思っていてね」
「じゃあ、タイミング良かったね」
廻螺(エラ)! オレも食うからな」
「わかってるよ。ちゃんと()(トラ)の分もあるから、そんな怖い顔しないで」
「オレ、いっつもこの顔」
「まあ、うん、そうだね」
「ほら、二人とも帰るとしよう」

 時計塔広場の噴水に腰掛け、横を通り過ぎていった三人組を見る。
 大人しそうな風貌だが芯がしっかりしていそうな男。ギャップがある人間は嫌いじゃない。
 腹の底では何を考えているかわからない番人の男。まあ、それは私にも言えることだが。
 正直頭が良さそうには思えない男。ああいうのはたまに鋭いことを言うから厄介だ。

「……ふむ。覚えておこう」

 目の前の時計塔を見上げる。
 憎らしいほどの象徴的存在。透京の人間の支配者のようなものだと心の中で零した。正確に言えば、Mが支配者だが、本当にそうだろうか。この時計塔こそ、透京の真の支配者ではないだろうか。
 まあ、そんなことは取るに足らないことだが。

▼△▼

()(エン)、紅茶」
「お前さ、そのうちそれしか言えなくなるんじゃないの?」
「なるわけないだろう。君は馬鹿か?」
「冗談に決まってるだろ、流せよそこは……」
(ユー)(レン)に通用するわけないじゃん。頭でっかちなんだから」
「まあね、それはわかってるんだけどさ」
「僕の頭のサイズは標準だ」
「ほらね、馬鹿デカイ」
「標準だ」
「あーーもういいから……」

 廃れた教会の近くで随分と洒落たお茶会をする男たち。彼らから視角にある木に寄りかかりながら、心地良い木漏れ日に目を閉じる。
 常識人のように見える普通の男。いや、見た目から普通など判断するのは良くないな。
 理知的な瞳を持つ、観察眼に優れていそうな男。確かに頭が固そうだ。
 どこか心を閉ざしているように見える男。少しだけ昔の私に似ている。

「たまには森を歩いてみるものだな」

 思わぬ出会いに満足気に一人頷く。膝の上のカンパネラは気持ち良さそうに眠っている。時々スピスピと鼻が鳴っているが、あの三人に聞こえることはなさそうだ。

▼△▼

 それは偶然思い立ったことだ。
 ――もしかしたら心のどこかで救いを求めていたのかもしれない。私は、永遠に終わらない時間を過ごすことを恐れていたのだろうか。ただ、真実は、私にもわからない。
 六つのガラスの靴――全て左足のみ――を並べる。天井の穴から降り注ぐ月の光が、ガラスをより一層美しく輝かせた。ヒビが入っていないか、不備はないか確認してから、一つ一つにメッセージカードを添える。内容は全て同じだが、宛名は全て違う。

『 このガラスの靴にあう者が、あなたの願いを叶えるだろう 』

 これを受け取る男たちは何を思うのだろう。
 馬鹿げたイタズラだと思うだろうか。
 自分の願いは何だろうと考えるだろうか。
 ガラスの靴にあう者とは誰だろうと想像するだろうか。
 送ってきた人間は誰だろうと思うだろうか。

 男たちの反応をすぐそばで一人ずつ見ていたいものだが、少々面倒だからやめておこう。ガラスの靴をどうするかは自由だ。捨ててもいい。取っておくのもいい。手にした者がしたいようにすればいい。
 正直、彼らの願いはどうだっていいのだ。ガラスの靴に願いを叶える効果などあるわけがないのだから。ただ、信じる心は不思議なもので、知らず知らずのうちに願いを叶えるのだ。だから、私も信じている。どんな形であれ、私の願いは叶うはずだと。

「おっと、忘れるところだった。肝心のガラスの靴を渡しに行かないとな」

 今度は左足だけではなく右足も揃ったガラスの靴を用意する。そこにメッセージカードを添えることはしない。これは私が“彼女”に直接渡しに行くからだ。

「君は私に失望するだろうか――」

 それでもいい。君が望まなくとも私には必要なことだ。私に失うものなどもう何もない。多くのものを失った一瞬一瞬を思い出しては、その心の痛みを踏み台にして、私は今を生きている。
 私は矛盾した願いを抱き続けながら、終わりの時を待つことにしよう。

「願わくは、私の願いが――」

 月の光を吸収したかのように輝くガラスの靴を手に、そっと底知れぬ夜に紛れた。

END