本は好きだ。僕の知らない世界が描かれているから。
昔、初めて図書館に来た時のことを思い出す。透京だけではない、憧れの外の世界を描いた本は僕を圧倒させ、魅了した。閉館時間まで黙々と読み続け、時の流れの早さに肩を落としたものだ。できることなら、図書館にある本を全て読み終わるまでここにいたいと思った。外へ出られないのなら、せめて文字や絵だけでもいい。
外の世界に触れていたかった。
夕方、勤務を終えて外へ出ると、すっかりガラスの街は橙色に染まっていた。ガラスが生み出す独特な色合いはきっと他の都市では見ることができない。僕は意外と気に入っている。
聞き覚えのある声に振り向けば、そこには幼馴染の綸燈がいた。仕事着である番人の制服を着ていないところを見ると、どうやら彼は今日お休みだったらしい。
甘いマスクで甘い物――と言ってもチーズケーキに限る――が好きというのは女性からしたらきっとポイントが高いんだろうなあ、とぼんやり思う。じっと綸燈を見上げれば、どうしたと言わんばかりに優しく微笑まれる。
綸燈は弟である泣虎の面倒を昔から見ているおかげか、料理上手だ。大体のことはさらっとこなす、まさにスマートな大人である。この兄弟とは昔からの付き合いということもあり、たまに家にお邪魔してご飯を食べるのだが、まるで自分も二人の兄弟になったような気持ちになり、居心地が良い。
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兄の綸燈が大好きな泣虎は文句を言ってはみるが、だいたいそれは可愛い反抗で終わる。この二人を見ていると、しつけというのはこういうことなのかな、と思ったりするのは秘密だ。
泣虎は僕たち二人より少しだけ前を歩き、チラリとこちらを向きながら口を開く。
否定しないんだ、と心の中で呟きながらも、泣虎の良いところは素直なところなので、微笑ましくもある。
泣虎の何気ない一言に少しドキリとする。僕が誰より外に恋焦がれているからだ。
透京の人間は臆病だから、仕事やよっぽどの用事がない限りは進んで外へ出る者は少ない。何せ、透京の人間はガラスの呪いという制約があるからだ。無防備に外へ出た日には、あっという間にガラスの置物となってしまう。だが、その制約の先には僕たちの知らない広い世界が存在している。透京よりも文明が発展している都市もあり、言語も文化も異なる異国もある。世界は僕たちが思っているよりも遥かに大きく、驚きに満ち溢れているだろう。そう考えると、僕は何て小さな世界に閉じこもっているのだろうと情けなさすら感じた。
僕が自由だったら。自由な世界に生まれていたら――様々な国へと旅をして、世界中の本を読み漁るのも楽しそうだ。
そこまで想像して、ふと現実に意識を戻せば橙色に染まったガラス。
そうだった。呪いがある限り、僕はたった一歩すら外へ出ることは叶わない。
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綺麗な言い方をするとお兄ちゃん子の泣虎は食事の時もいつもこんな感じだ。幼い弟を見守る兄――というより、もはや母親のようだなと思う。行き過ぎたお兄ちゃん子の泣虎ではあるが、僕には兄のように接することがある。僕の印象としては大きい弟なのだが、泣虎からすれば年下の僕を弟のように思っているらしい。少しくすぐったいが、二人の家族になれた気がしてやっぱり嬉しいのだ。
夕飯を食べ終わると、ソファに仰向けで寝転がっている泣虎の横に座り、本を読む。それを見た泣虎が体をごろりと反転させ僕の手元を覗き込む。
何故か満足そうな泣虎は再び体を反転させ、仰向けになる。腕に髪が当たってくすぐったい。
綸燈は食器の片付けが終わると、マグカップにココアを淹れてテーブルに置く。もちろん、僕と泣虎の二人分だ。
泣虎にはどんな本がいいだろうか、と考えてみる。あまり漢字が多いとすぐ眠くなってしまうかもしれないから、挿絵の多い児童書が良いかもしれない。
肩を落としながら立ち上がれば、泣虎も一緒に立ち上がる。
過保護だなあと思いながらも、僕は何故かワクワクした。
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二人には外で待っていてもらい、図書館に入る。真っ暗な図書館は静寂に包まれ、足音一つですら、やけに響いた。さっさと鍵を取ってしまおうと、忘れたであろう場所まで行き、鍵を見つける。やっぱりここだったかと思いながら、鍵を握りしめると出口へと向かう。
ふと、何か違和感を覚え本棚を覗く。すると読書スペースの机に何か置かれていることに気付く。そこには美しいガラスの靴が置いてあった。しかも左足のみ。誰かの忘れ物にしては不自然だ。ゆっくりと近付いてみると、メッセージカードが添えてあり、思わず手に取って開いた。
『廻螺[エラ]=アマルリック 様
このガラスの靴にあう者が、あなたの願いを叶えるだろう 』
一体誰からだろうと辺りを見渡すが、ここには僕しかいない。仮に誰かがここにいたとしても気付くはずだ。こんなにも静かなのだから。
ガラスの靴にそっと手を伸ばし持ち上げる。
仮にこのガラスの靴が持ち主へと導いたとして、本当に僕の願いが叶うのだろうか。些細な願いすら叶わないのに。そう思いながらも、不思議な輝きを放つガラスの靴を手放せずにいた。