紫鳶の声に目を開けると、いつの間にか日が高くなっており、日差しが顔に当たる。眩しさに目を細めながら体を起こせば、眠ってしまう前はいなかった黒禰がいた。特に何も考えていないような顔でこちらを見ている。
水分を求めて口を開けば、少し声が掠れていた。
紫鳶と黒禰とたまに集まるここは、屋根もなければ扉も窓もない。テーブルやイスを芝生の上に直接置いただけの実に開放的な場所だ。木にレースカーテンを引っかければ日差しは木漏れ日のように照らす。夜はぶら下げたランプ、テーブルのキャンドルで灯りは事足りる。
ふらりと集まってふらりと解散する。縛られない自由な空間が気に入っていた。
少し座り心地の悪いイスとは別にお気に入りのカウチを用意して、だいたいはそこに座り本を読み耽る。きっと紫鳶や黒禰は飽きもせず本を読んで、と思っていることだろう。僕から言わせれば、よくこの退屈な日常を本無しに過ごせているものだと不思議でならない。
紫鳶からマドレーヌを受け取り、一口齧ればちょうど良い甘さが広がる。食べてから気付いたが、どうやら空腹だったらしい。あっという間に一つ食べ終わると、テーブルに置かれたマドレーヌをもう一つ手に取る。
今まさにその状態だったとは言えず、視線を逸らすが、くすくすと紫鳶の笑う声が聞こえ、わかっているなら聞かなければいいのに、と思う。
腹ごしらえを終え、再び本を開く。だが、なんとなく読む気になれず目を閉じる。頬を撫でる程度の風がちょうど良い。耳をすませば、紫鳶と黒禰が明日の天気の話をしているのが聞こえる。どうでもいい。どうしてそんなどうでもいいことを話している。何故、世界に変化を求めない。
今この瞬間にも、透京以外にも呪いをかけられた都市があるかもしれないのに。想像するだけでワクワクする――と言うと、不謹慎だと紫鳶あたりは口うるさく注意するだろう。うるさく説教されても、ワクワクするものはワクワクするのだから仕方がない。
僕にとって研究することが人生で一番意味ある行為であり、生きがいであり、全てだ。もしも透京の呪いの謎を解明したら、僕はどんな謎を追えばいい? どんな呪いを追えばいい?
こんな呟きを漏らした日には、きっと紫鳶は研究ばかりしていないで、恋愛にでも目を向けてみたら、などとくだらないことを言いそうだ。黒禰は僕が本を読んでいようが研究をしていようがどうでもいいと思っているだろう。彼は何にも執着しない。
少し目を閉じて考えていただけでこれだ。全く、紫鳶は世話焼きが過ぎる。
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頭を使えば糖分が欲しくなる。黒禰が作った菓子で補給はされるが、口直しがしたい。塩分も欲しいと僕の脳は訴えている。塩分が欲しくなると飲み物にも変化を求めたくなった。
そう言えば紫鳶が渋々折れるだろうと予測し、その瞬間を待つ。
紫鳶がとやかく言うまでにそう言ってしまえば、ため息を吐いた後に、不本意だが『本当にお前ってやつは仕方ないね』などと言いながら、承諾するはずだ。
紫鳶と黒禰が去ると途端に静かになる。閉じたままだった本を開き読書を再開する。代り映えしない文字がつらつらと並び、そこには単なる憶測と根拠のない結論が書かれている。実に退屈で役に立たない本だ。興ざめしてしまい、読んでいた本を無造作に芝生の上へと投げた。
一人掛けのカウチから立ち上がり、芝生の上へ適当に柔らかい布を広げ、クッションを投げる。その上に寝転び、目を閉じるとあっという間に睡魔が忍び寄る。紫鳶がいない今、風邪を引くと小言を言われる心配もない。そよ風を感じながら、意識を手放した。
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ちょっとした肌寒さを感じて目を覚ますと、日は傾き、いつの間にか空は橙色に染まっていた。今日は久しぶりに無駄な時間を過ごしたと思いながら、そろそろ帰ってコーヒーでも飲もうと立ち上がる。
芝生の上に投げっぱなしだった本を取ろうとしたところで、思わず眉を顰めた。
本の上にはガラスでできた靴が、本を台座替わりに鎮座している。ガラスの靴は片側しかなく、周りをざっと見たが対になる靴は見当たらない。一体どういうことだ。本の上に靴が置いてあるのは構わない。一番気にかかったのは、“誰が”ここに置いたかだ。僕が寝ている間にここへ誰かがこの靴を本の上に置いていったのか。この場所を知る紫鳶か、黒禰か。
――いや、どちらも可能性は低い。どう見ても女物の靴だ。僕に気付かれずどうやって置いた?
さらにガラスの靴にはメッセージカードが添えてある。挑戦状か何かか? 面白い。ちょうど退屈だと思っていたところだ。どこの誰だか知らないが、この退屈を殺してくれるのなら誰だっていい。
そう思いながら二つ折りのカードを開く。
『憂漣[ユーレン]=ミュラー 様
このガラスの靴にあう者が、あなたの願いを叶えるだろう 』
この場で割ってやろうとも思ったが、“願いを叶える”という言葉に引っかかった。
どこの誰が僕の願いを叶えるって?
持ち主のわからないガラスの靴を握りしめ、気が付けば僕の口角は上がっていた。