ごくごく普通の代わり映えのしない日常。
朝起きて、相変わらず広間で分厚い本を持ったまま、カウチにどっしりと座る同居人、憂漣の一言が飛び込む。
ほら、出たぞ。こちらをちらりとも見ることなく、ここの王様である憂漣は毎日飽きもせず同じタイミングで言い放つ。
そう言ってしまえば、子供のように口を尖らせた憂漣は何も言えなくなる。ふん、と鼻を鳴らしながら昨晩からずっと読んでいるだろう分厚い本に視線を戻した。
その様子を横目で見ながら、唯一の特技である紅茶を淹れる。
何を考えているのかわからないわがままな憂漣のため、高そうなティーカップに飴色の紅茶を注ぎ、角砂糖を二つ落とす。たっぷりのミルクも入れれば完成だ。この男は意外にも甘党らしい。本人は人より脳を使っているから糖分が必要なのだと言っているが、俺が思うにただの甘党である。
ミルクだけ入れた紅茶を一口飲む。憂漣の前のカウチに腰掛け、さて今日はどうしようかと考える。目の前の男はどうせ今日も俺には到底理解できない小難しい本を読むのだろう。洗濯して、掃除して、少し遠出でもしてみようか。そんなことを考えていると、本から視線を外した憂漣が口を開く。
マシンガンのようによくもまあつらつらと言葉が出てくるものだ。一回紅茶を淹れなかっただけで、この根の持ちよう。同居人として、友人として、このわがままな男の将来が少々心配である。
何かと言っているがこれは紅茶を淹れろ以外の“何か”はあるのだろうか。ああ、あるとしたらそこの本を取って、か。
憂漣は視線を本から外さないまま、手をひらりと振る。いいから行け、ということらしい。
全く、このわがままな王様には困ったものだ。そう思っていても、俺の口元は自然と楽しそうにきゅっと上がっていた。
▼△▼
真っ青な空。雲はちらほらある程度で、まさに快晴。建物の周りにある背の高い雑草をざっと見渡し、良い運動になりそうだと腕まくりをする。建物の入り口に近い場所からひたすら草をむしる。透京の外にあるこの場所はガラスに囲まれたあの街とは違い、自然溢れる場所だ。草むしりを完了したところで、すぐにまた生えてくるだろう。
暖かな日差しを肌で感じながら、黙々と草むしりをすること一時間。一息つき見渡せば、随分綺麗になった。これならば、当分は草むしりの必要もないだろう。
体をぐぐぐと伸ばせば、思わず声が漏れる。憂漣じゃないが、今こそ糖分が欲しい。
突然の声に振り向けば、いつの間にか来ていたらしい黒禰がいつもと変わらずマイペースな様子でトコトコとこちらに近づく。
大量の草を袋に詰め、建物の横に置くと黒禰を中に招く。黒禰はごく自然と憂漣の前のカウチに座ると、お菓子をテーブルに置き、憂漣に声をかける。
会話は嚙み合っていないが、彼らは特に気にしないらしい。マイペースすぎる友人たちにこっそり笑う。
人数分の紅茶と、簡単にサンドウィッチをこしらえると、二人の元へと持っていく。
と言いながらも、渋々といった様子でサンドウィッチに手を伸ばす。横にいた黒禰もゆったりとした動作でサンドウィッチを手に取るとパクリと噛り付く。
黙々と食べる憂漣と黒禰の様子に、大きな弟を持ったような気分になる。ただ、彼らの面倒を見るのは嫌いじゃない。手がかかる二人ではあるが、つい面倒を見てしまうのはきっと彼らの魅力なのだろう。二人の様子を見ながら、今のうちに草むしりの袋を回収するか、と外へ出る。
建物に寄せておいた袋を取ろうとするが、先ほどまであったはずの袋が消えている。おや、と首を傾げながらも建物の陰に隠れた場所を確認する。そこには袋の代わりに一輪の花とガラスでできた靴―片足分だけ―がおいてあった。誰かの忘れ物だろうかと考えたところで、この場所を訪れるわずかな人間を思い浮かべるが、その中にガラスの靴を忘れそうな人間はいない。ともすれば、これは一体誰のものだろうか。
近寄って見てみると、メッセージカードが添えられていることに気付く。見ていいものかと悩んだが、持ち主を知るためにそっと手に取った。二つ折りのカードを開くと、そこにはこう書かれていた。
『紫鳶[シエン]=クリノクロア 様
このガラスの靴にあう者が、あなたの願いを叶えるだろう 』
差出人は書かれていない。ただ、宛先が自分であるということは、何か意味があるのだろうか。
憂漣は言いたいことだけ言うと、さっさと中へ入ってしまう。扉が閉まるのを見ながら、とっさに隠してしまったガラスの靴をもう一度見てみる。
こんな怪しいものを持っているべきではない。そう思いながらも、カードに書かれた言葉に引っかかっている自分がいた。
――本当の持ち主が現れたら返せばいい。そう自分に言い訳をしながら。
ぎゅっと握ったガラスの靴が壊れないように持ち直すと、再び日常に戻った。