※このSSは、ゲーム本編に収録されている「天竺一家編」のサイドストーリーです。
壁時計は、夕方の4時55分を指している。
針の位置を気にしながら狭い居間をいったりきたり、約1時間前からそうしている姿に、玉龍は声をかけた。
「……悟浄。いい加減、座ったら」
静かに宥められた悟浄は自身の失態に気付いたかのように、はっと顔を上げる。
「……そうだ。やはり、夕飯も余分に用意したほうがいいんじゃないか?
この時間帯だし、先方も一息つきたいだろう。……いや、でも逆に失礼になるだろうか」
「…………」
ひとりごち、さらには唸り声を上げながら、やはりうろうろと所在なさげにしている兄を一瞥して、玉龍は溜息をついた。
――それは仁寿2年、後に唐と呼ばれることになる時代――の、はるか未来。
21世紀、東の最果てにある島国のとある下町に、男ばかりの4人兄弟が住んでいた。
早くに親を失くした彼らは、兄弟4人で身を寄せ合いながら堅実に育ち、つつましく生きている。
……のだが、この一家は、様々な問題を抱えていた。
はじめての家庭訪問
かちり、かちり、と秒針の動く音がする。
鼓膜に響くその音に、天竺家の次男――悟浄は、全神経を研ぎ澄ませていた。
すぐ傍でそんな兄をうろんな目で見つめるのは、末っ子の玉龍だ。うろんな目、は生易しいかもしれない。傍から見ればそれは、絶対零度に冷めた瞳だった。
「あと3分か……」
「……家庭訪問って、そんなに重大なの」
「!? なにを言うんだ、玉龍! 重大も重大、人生の一大イベントじゃないか」
何気なく零した言葉は、身を乗り出した悟浄に盛大に食いつかれることになる。
次男が大げさなのはいつものことだが、家庭訪問がなんたるかをよく理解していない玉龍にとっては実感が沸かないのも事実だ。
そう、先刻から悟浄が待ち望むは『家庭訪問』が設定された時刻。つまりは玉龍のクラスの担任が、もうじきこの家にやってくるのだ。
「この先の人生が決まると言っても過言じゃない。学校でのお前の印象まで左右されてしまうんだぞ」
「……僕はべつに。どうでもいいよ」
「どうでもよくないだろう。今の世間は怖いんだぞ。担任に目をつけられたらどうするんだ」
「先生は、そういうことしないから」
「……! そうか……」
玉龍の切り返しに、悟浄は興奮が和らぐほどに驚いてしまった。淡白な弟が、どうやら『担任』を信用しているらしい。
天竺家の末っ子・玉龍は、見た目は可愛らしいものの、反応はひどく端的で極度に冷めている。よくも悪くもマイペースだ。
家族である悟浄は気にならないが、学校でうまく馴染めていないのではないかと密かに心配をしていた。
しかし、めったに人に懐かない彼が担任を好意的に見ているという事実は、これ以上ない驚きと共に朗報であった。
「……そう、そうか。いい先生なんだな」
「うん。いろんなこと、教えてくれるよ」
「そういえば聞き忘れていたな。どういう先生なんだ? 年齢はどのくらいの方なんだ」
「……? わからない。若いほうだって、言ってた」
「む。新米教師か。たしかに若い教師は熱血だというしな」
「それ、偏見だと思う」
「……玉龍が偏見という言葉を使ったこと自体に驚いたぞ、兄さんは」
「そういうのは偏見って言うんだって、お師匠様が言ってた」
「……『お師匠様』?」
「担任の先生のこと」
「なかなか珍しい名前だな」
「……それ、ボケたつもり?」
先刻より気温の下がった目で一瞥されて、悟浄は首を傾げる。名前でないのなら、真に『師匠』という意味なのか。
師匠と呼ぶほどに慕っていると見た。もしかして本当に熱血教師で、人付き合いが苦手な玉龍を導いて青春を謳歌させてくれている担任なのかもしれない。
そこまで妄想を広げて、悟浄は目を輝かせた。
「じゃあ、本名はなんと言うんだ?」
「それは――」
もはや妄想の世界に飛んでいた兄を放置していた玉龍が、ぱちりと目を瞬いてから、口を開く。
それと同時に、来客を告げるチャイムの音が鳴り響いた。
「……っと、いらっしゃったか」
立ち上がり、ぐっと拳を握り締め、きゅっと唇を引き締め、玉龍に目顔で合図して玄関へと向かう。
昨夜テレビで見た、戦に向かう前の『武士』みたいだ。決意を秘めた兄の背中を眺めながら、玉龍は頭の片隅でそんなことを考えた。
* * *
「どうぞ、お上がりになってくださ――」
玄関の戸を開くと同時、笑顔で出迎えた悟浄の言葉は、不自然に宙に放り投げられた。笑顔のまま、時が止まる。
「こんにちは、失礼します」
――涼やかな、声。わずかな会釈にさらりと流れた髪が、西日に反射して淡く光る。 そして、まっすぐに悟浄を見つめて微笑んだ彼女――そう、『彼女』は。
(……な……!?)
てっきり玉龍の担任が来たのだと思い、意気揚々と扉を開けた先に現れたのは、自分と同年齢ほどの女性だった。
しかも、なんというか、直視が出来ない可憐さだ。
それはあくまで悟浄比であり、もともと悟浄という人間は女性に手馴れておらず、緊張してしまうのが常だったけれど――。
これは違う種類の緊張だ、と。高鳴る鼓動が告げている気がした。
「あ、あの。どちらさまでしょうか……?」
やっと出せた言葉は、それだけだった。女性は、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせる。
「お師匠様。いらっしゃい」
瞳の色にさえ目を奪われていた悟浄の背後から、これまた冷静な声。すぐには理解が追いつかなかった。
「こんにちは。玉龍。と言っても、今日も学校で会いましたけれど」
「……え、ええっ!? 玉龍、もしやこの方は……」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、玉龍くんのクラスで担任をしております、玄奘と申します」
「…………た、担、任?」
「はい。……あの、どうされましたか? 保護者の方……ですよね?」
「気にしなくていいよ、お師匠様。馬鹿がうつったら、困る」
「ええ?」
玄奘の腕をやんわりと掴んで、玉龍が室内へと導く。
玄関前で呆然と立ち尽くした悟浄は、数分ほど思考が固まっていた――。
* * *
「失礼な出迎えをしてしまいまして、大変失礼しました……」
「い、いえ。お気になさらず……」
「まさか女性の方とは思わず……い、いえ、その、『偏見』ではないのですが」
ぺこぺこと互いに頭を下げている光景は、玉龍から見ると不可思議なものだった。
(……なんか、面白くない)
そして何故か、玉龍の胸の内を薄い靄のようなものがめぐる。
「ふふ。そんなに恐縮なさらないでください。今日は保護者の方と交流ができればと伺っただけですから」
「あ、はい……。では、お茶を出しますので、少々お待ちください」
居間を後にした悟浄を目で送り、ずいぶん真面目な方のようだ、と玄奘は感心していた。
すると、2人の会話をじっと聞いていた玉龍が残された玄奘のそばに寄り添い、彼女の瞳を覗きこんだ。
「……ごめん、お師匠様」
「? どうして謝るのですか、玉龍」
「悟浄、変だから」
「そんなことはないですよ。真面目なお兄さんなのですね」
ふわりと微笑まれて、玉龍も自然と口元を綻ばせる。
玉龍は玄奘の人柄や雰囲気が、とても好きだ。他のひととは違う、なにか、安心のできる匂いがする。
家庭訪問というものに興味はないけれど、彼女が自分のためにこの家に来てくれた事実が、ただ嬉しかった。
――そして。
「学校での玉龍くんは、とても真面目ですよ」
「そ、そうですか。それはよかった……」
「少しクラスの子と馴染めないようですが、険悪な雰囲気ではありませんし」
「僕はお師匠様といられれば、それでいいよ。お師匠様以外、いらない」
「ぎょ、玉龍!? お前、担任の先生になんてことを……というか、その台詞は誤解を招くぞ!?」
「玉龍、そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、他の子とももう少し交流を図りましょうね」
「……………わかった」
担任と生徒、そしてその保護者の交流は順調に進んでいた。
始めこそ真面目な2人が一種の緊張感を漂わせていたが、少しずつ笑い声も混じっていく。
「悟浄さん。玉龍くんはよく、お兄さんのお話をしてくれるんですよ」
「え。玉龍が、俺のことを……?」
「おかしなところはあるけど、家をひとりで切り盛りしている自慢の兄だと伺っています」
「……なん……だって……。玉龍! お前……!」
「お師匠様。僕、そんなこと言った?」
「言っていましたよ。だいたい、そんな感じでした」
「……ふぅん。べつに、いいけど」
潤んだ目で感動する悟浄を面倒そうに眺めながら、玉龍がふいと横を向いた。
「それに、それ。たぶん他よりはマシって言いたかったんだと思う」
「他?」
「もっとおかしいのが2人、いるから」
「そういえばあと2人、お兄さんがいらっしゃるんでしたね」
「……そうなんです。恥ずかしながら、ご挨拶もさせられないような奴らですが……」
「ええ? そんなにですか?」
「いえ、これまで支えあい……? ながら生きてきた大事な兄弟なのは事実です。
ですが、なんというかあまりに癖が強いというか、欠点が多いので。玄奘先生に会わせることなどできません」
「そうですか……せっかくですし、お会いしたかったのですが」
「会わないほうがいいよ。お師匠様が、汚れる」
「そ、そうですか……」
真剣な目で諭す玉龍と、深刻な顔でうんうんと頷く悟浄。
そんな2人に囲まれ、玄奘は押され気味に首を傾げるしか出来なかった。
* * *
――その後、穏やかに雑談を続け、場の雰囲気もすっかり解れてきた時刻。
そろそろお暇します、と玄奘が丁寧に指をつき礼を告げた。
「いえ、こちらこそ……なんのおかまいも出来ませんで」
「とても貴重な時間を過ごさせて頂きました。玉龍、また明日。悟浄さん、今後ともよろしくお願いします」
「うん。お師匠様、来てくれてありがとう。……送る?」
「いえ、大丈夫ですよ。お菓子までごちそうになってしまって……あ、すみません。手だけ洗わせて頂いてもいいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。廊下の右に洗面所がありますから」
「ありがとうございます」
一礼して立ち上がると、悟浄が手のひらで指し示した廊下へと向かう。
洗面所を借りて手を洗いながら、玄奘は胸に秘めた温かさに、こっそりと微笑んだ。
玉龍が真面目で良い子なのは担任をしていても肌で感じられるが、何分、他の生徒に理解され難い性格であることもわかっていた。
けれど今日、彼がいかに愛されて育ったかを知ることが出来たから。
孤独を好む性質だと思っていたが、帰る場所――温かい家庭があるならば大丈夫だろう。
もちろん、今後も学校内でのコミュニケーション能力は養っていかなければならないが、それは前向きな課題だ。
玉龍と悟浄に止められたが、残り2人の兄にも、できればご挨拶したかった。
いつか、機会があるだろうか。そんなことを思いながら洗面所を出て、廊下を曲がる。――と、同時。
なにかに、勢いよくぶつかった。
「きゃ……っ!?」
「うお、なんだ。……って」
「え?」
ぶつかったと同時に崩れた体勢を、大きな手で支えられる。
低い声色に驚いて顔を上げれば、そこには大柄な男性がいた。
眠そうな目を瞬かせ、ジャージという出で立ちだったけれど、端正な顔立ちと威圧感に驚く。
「す、すみませ……っ」
「……お前、誰だ? 客か。まーた悟浄が変な勧誘に引っかかったとかか?」
「え、違います。あの」
「っつーか……」
淡い朱色の瞳が、すっと細められる。さらに顔が迫って、玄奘は目を瞠ったまま動けなかった。
「お前……どっかで会ったことないか?」
「え……?」
「って、これじゃベタな口説き文句か」
「あの……離してもらえませんか。手が、というか、顔が近いのですが」
「……へえ。ずいぶんお堅そーな女だな。とって食うわけじゃなし、こんくらいで警戒すんなよ」
「は!?」
(なんだか、とても失礼なことを言われた気がするのですが)
にやりと口角を上げた男は、すっと玄奘の眼前に指を近づけ――その眉間を指先でトンと叩いた。……恐らく、困惑で眉が寄っていただろう額のあたりを。
唐突な行動に、本人がぱちぱちと目を瞬くしかできないでいると、なにが気に障ったのか、男は呆れの溜息と共にぱっと手を離した。
面倒そうに頭をがりがりと掻いて、見定めるような瞳のまま彼が彼女を見つめる。
「……で? 誰なんだよ、お前」
「誰って、私は――」
言いかけて、はっと気付く。こんな出で立ちで家にいるのだから、どう考えても玉龍の身内であるはずだ。
「玄奘先生、どうされまし――って、悟空!? 起きていたのか。なにをやってるんだ」
「なにって、腹減ったから起きてきたらこいつとぶつかったんだが」
「お前、玄奘先生にふしだらなことをしていないだろうな!?」
「……なに、悟空。僕のお師匠様に、なにしたの?」
「おいおい……お前ら。俺をなんだと思ってんだ。八戒じゃあるまいし」
「ちょ、悟浄さん。落ち着いてください……! あの、玉龍も」
状況が混乱に陥り始めた。先走って興奮している悟浄と、冷ややかな殺気を放つ玉龍。
そして未だに、何故か鋭い目で射抜いてくる『悟空』という彼。
そんな3人に挟まれ、すぐさまこの場を去るべきなのかと悩み始めた玄奘。
――その場に、さらなる混乱が舞い込んだのは、玄関の戸が開かれると同時のことだった。
「たっだいま〜。って、ナニ。あんたら、玄関先でなにやってんの?」
緊張を孕んだ場に、ひたすらに暢気な声色が響く。ほろ酔い特有の弾んだ声だった。
姿を現したのは金髪の青年。見るからに人は悪そうではないが、『軽さ』の象徴のような雰囲気を持っていた。
「八戒。おかえり」
「おー、ただいま。……って」
「あの……すみません、お邪魔しています」
恐らく、悟空と彼が『残りの2人』なのだろう。玄奘は確信を持って、とりあえずは挨拶を先行させた。
浅くお辞儀をするが、八戒と呼ばれた青年からの返事はない。
「……お嬢さん。僕と一緒に小宇宙を探しに出かけませんか?」
「はい?」
――と思えば、光の速さの如く室内に上がりこむと、青年――八戒は玄奘の手をそっと取り、熱い視線を注いだ。
背景に花か星か点描でも飛んでいるかのような、きらきらとした効果音が聞こえてきそうだ。玄奘は、ただ目を白黒させる。
「八戒! 帰るなり何を考えてるんだ! その手を離せ!!」
「えー? だって、こんなキレーなお姉さん、放っておけるワケねーだろ。悟浄こそなに言ってんだ」
「さも自分が正しいかのような言い方をするな。お前のは別世界の常識だ」
「八戒。手、離さないと刺すよ」
「いっ!? なんだよ、玉龍がそんな怒るなんて珍しーじゃん。ってか、このおねーさん、誰? まさか……悟浄の彼女?」
「な……っ、そんなわけがないだろう!」
「ですよねー。えーっとじゃあ……。あ、もしかして」
未だ間近に迫っていた瞳は、今度は人当たりの良い、にこりとした笑みを見せる。
「オレを訪ねて来てくれたとか? おねーさん」
「ええと……いえ、私は玉龍くんの担任です」
「……え。うええええ!? マジで? 若くねえ!?」
「ああ、やっぱそうか。どーりで。悟浄や玉龍が友人どころか、知人でも女連れてくるわけねえもんな。それも、こんなお堅そうなやつ」
得たりというように頷いた悟空の言葉は、ぴしりと玄奘のこめかみを震わせた。
……気のせいではない。なぜか彼だけ、自分に敵意のようなものを抱いているらしい。
「……ご挨拶が遅れました。私、玉龍くんの担任を務めております。玄奘と申します」
少々勘には触ったが、お邪魔しているのはこちらだ。礼儀は尽くさねばなるまいと腰を折れば、悟浄がそれ以上に低い姿勢で恐縮した。
「すみません、玄奘先生。お騒がせして……この2人が、先程言っていた玉龍の兄です。ジャージが悟空で長男。酔っ払いが三男の八戒です」
「おい。なんか紹介の仕方がひどくねえ?」
「いつものことだろ。女好きっつって紹介されなかっただけ、悟浄に感謝しとけ」
「ちょ、悟空!? 玄奘センセーに誤解されるよーなコト言わないでくれる!?」
「…………」
なんというか、べつだん大きく問題があるようにも思えないが、個性的な兄弟ということは理解した。
まず、それぞれが全く違った性格をしているようだ。兄弟だから似る、というわけでもないらしい。
「突然お邪魔してすみませんでした。私はもう帰るところですので……」
「おい、玄奘っつったか」
「え、はい。……なんでしょう」
不躾にも呼び捨てされたことに驚きつつも、悟空を見返す。――と、彼はわずかに口角を上げた。
「さっきは悪かったな。ま、不肖の弟だが適当に育ててやってくれ」
「は、はぁ……」
「いいなー。玉龍、こんなかわいー先生に勉強教わってんのかよ。なあなあ、オレにも教えてくれる? 勉強だけじゃなくて……色んなコトを、さ」
「……八戒。お前はしばらく小遣いなしだ。いや、今すぐ出ていけ」
「ちょーっ!? 悟浄、それは困る! 困るから!」
「大体、お前は金を遣いすぎなんだ。また俺に隠れて借金を作ってるんじゃないだろうな」
「悟浄、大丈夫。八戒は僕が今すぐ、消してあげるから」
「だからなんで玉龍はそんな怒っちゃってるワケ!?」
「あー、うるせえ……。こちとら15時間寝たせいで頭痛いっつーのに」
「お前は寝すぎだ、悟空! いい加減、定職について働け!!」
もう収拾がつかないような気がしてきた。と、若干遠い目になりつつ、玄奘は玄関先を見つめる。
フリーダムとは聞いていたが、本当に個性の強い兄弟らしい。そして会話を聞く限り、大きく問題はない――とは口が裂けても言えなさそうだった。
「……それでは、私はそろそろ……」
「あ、本当にすみません。玄奘先生。今度、なにか詫びをさせてください」
「お? 悟浄、それってデートのお誘い?」
「は!? なななななにを言ってるんだお前は!」
「お師匠様。また明日、学校で会えるよね。楽しみにしてる」
「……ええ。私も楽しみにしていますよ」
きゅっと手を握ってくれた玉龍の、ひんやりとした手の冷たさ。なぜか、今はそれだけが癒しな気がした。
「気をつけてお帰りくださいね」
「また来てくれよー。今度はオレに会いにさ」
玄関を出るときにも騒がしく見送られ、苦笑いで返す。そして、背を向ける刹那、悟空と目が合った。
「……あんま難しい顔してっと、疲れるぜ。眉間の皺、どーにかしろよ」
「ご助言、ありがとうございます。……肝に銘じます」
生徒の身内だというのに、つい凍りついた笑顔で返事をしてしまってから、ゆっくりと扉を閉じた。
「…………はぁ」
(……濃い。濃いです……)
天竺家を後にして、玄奘は夕闇の道を歩きながらひとりごちた。
――はじめての家庭訪問。
肝心の生徒はとても良い子だが、その身内に対して身の危険を感じることになるとは思わなかった。
(初対面でこんなことを思うのは失礼かもしれませんが……。
あれ以上あの場にいれば、大変なことに巻き込まれていた予感がします)
ふぅ、と溜息をつきながら。彼女は次の家庭訪問に想いを馳せ、脳内でひとり作戦会議を繰り広げる。
秋風が吹きぬける藍と茜の混ざった空に、近所の犬の遠吠えが悲しく響いていた。