宵闇の中で光る蛍を目にすると、心が癒される。それは、崑崙山であろうと人間界であろうと、変わらない。
「昔は、朝歌にも蛍がいたらしいですよ」
その日、そんなことを言い出したのは、天化だった。西岐ではそろそろ蛍が見られる季節だと、そんなことを話していたときのことだ。
「そうなんだ?」
「まだ、死の雨が降ってなかった頃だそうですね。きれいな川が流れていて、そのほとりに蛍がたくさん集まっていたそうです。ただ、今は……ちょっと」
「そう、だね」
雨が降れば、虫は飛ばない。死の雨が降り続ける朝歌に、蛍が現れることはない。
「……早く、朝歌が元の美しい場所に戻るといいね」
「そうですね。そのためには、オレたちががんばらないと」
「うん」
楊栴にも、少しだけ朝歌のあたりをさまよった記憶はある。あの頃は人間界の地理などまったく理解してはいなかったが、おそらく間違ってはいないはずだ。
そう、地理になど考えをめぐらせるような余裕はなかった。ただの、ひとつも。
(……いや、やめよう)
天化に気づかれないよう、楊栴は首を振る。当時のことは、あまり思い出したくない。
今、楊栴はこの地で必死に生きようとしている人間たちを、愛しいと思っている。出来る限りの手助けをしたいと思っている。
──だから、思い出したくない過去を蒸し返す必要など、ないのだ。
「蛍か……知っているか、楊栴、天化」
「?」
そこに口を挟んできたのは、聞き慣れた声だった。
「太公望師叔?」
振り返れば、そこでは腕を組んだ太公望が、なにやら真顔で考え込んでいる。
「どうしたんですか、師叔。えらい真剣な顔、してますけど」
楊栴の横に並んで太公望へと視線を向けた天化の表情は、ほんの少し不安そうだ。西岐の軍師である太公望が真顔で考え込む姿を目の当たりにしてしまって、いろいろと縁起でも無い想像をしてしまったのかもしれない。
だが、実際太公望の表情は、楊栴でも少々不安になりかねないほど、真剣だった。
「奇形種と呼ばれる、青白く光る蛍がいるんだ」
「奇形種……ですか?」
「ああ」
一体、その蛍がどうしたのか。まさかとは思うが、その奇形種の蛍は、疫病の前触れだったりするのだろうか。いや、それはさすがにどうなのか。
咄嗟にそこまで考えて、楊栴は慌ててその思考を振り払う。思い込みは、いけない。師匠である玉鼎真人にも、何度も諭されたことだ。
「その青白く光る蛍が、どうかしたのです?」
そう自分に言い聞かせながら、楊栴は先を促す。
──なぜか、太公望の目がきらりと輝いた。
「よくぞ聞いてくれた。それは、幻の蛍と呼ばれていてな。物好きな金持ち連中に、高く売れるんだ。しかも、その奇形種の研究をしている機関が多額の賞金をかけていてな。持ち込めば、一攫千金も夢ではない。……ふふふ」
「…………」
どうやら、楊栴の懸念はまったくの取り越し苦労だったようだ。ため息しか出ない。
「あ、あのですねえ」
「あれえー、みんな集まってどうしたの?」
「……なにかあったのか?」
楊栴の隣で、天化も呆れている。話している声を聞きつけたのかいつの間にか集まってきていた姫発と玉鼎真人も、そんな天化と楊栴の様子を不思議そうに眺めていた。
もちろん、そんな反応に影響され、決意を揺らがせる太公望ではない。 「さあ、俺の……いや、西岐の軍費を充実させるために、奇形種蛍狩りに励むぞ。皆のもの、ついてこい!」
逆に、張り切りだした。そして、天化から事情を聞いてようやく事態を把握した姫発が、太公望の宣言を耳にして顔色を変える。
「ええっ、そんな! ほっ、蛍を軍費のために売るなんて、どんなひどいこと僕にはできないよ!」
「では姫発は、軍費のために西岐の民たちに更なる負担を強いるほうがいいというのか?」
「え……ど、どういうことだい?」
「軍費が足りないのは揺るぎない事実だ。軍とは人の集団、人が集まり動けばどうしたって金がかかる。蛍を売って赤字を埋めることが不可能なら、その分を西岐の民に負担してもらうしかない。増税か……」
「え、ええええ……そ、それは」
「そんなことは出来ないだろう? それに、売り先は研究機関だ。奇形種の蛍は個体数が少なく、絶滅に瀕している。売って保護することで、奇形種が生き残る可能性も高まるわけだ」
「そ、そうなんだね! それなら……」
そして、気づけば完全に太公望の味方になっていた。
「……あれ、もしかして騙されてませんか?」
「うん……」
天化が目を瞬かせ、楊栴が肩をすくめる。とはいえ、効果的な反論方法など見つからない。
楊栴が助けを求めようとして振り返ると、目が合った玉鼎真人も肩をすくめた。
「だが、太公望が言うように軍費はどうしても必要だ。とはいえ、民にこれ以上の税の負担をかけるわけにもいかない。だとすれば、他に方法はないだろう。それに、ああなってしまった太公望を止める術は誰も持っていない」
「ですね……」
しかも、発言が的を射ている。
「私たちがやるしかありませんね」
「ああ」
というわけで、急遽青白い光を放つ奇形種蛍の捕獲作戦が決行されることになった。
「──なんだけど……」
蛍探しに出てきた川辺で、楊栴は深いため息をついた。
幸い、すぐに蛍の光らしきものは見つかったのだが、そこからがまずかった。なにしろ、そこにいた楊栴以外の全員が、その光を追いかけてまったく違う方向に走り出したからだ。中でも、目がすっかり「金」
の文字と化していた太公望がこの上なく不安だった。
全員そのまま放置しておく、という選択肢は間違っても選べない。
「誰を追いかければいいんだ……?」
この上ない、難問だ。
夜の森の中で玉鼎真人をひとりにしておくのは、不安すぎる。なにしろ、あの不運っぷりだ。なにが起こってもおかしくない。
……そんなことを考えていたら、ますます不安になってしまった。
「師匠! どこですか?」
「……ここだ、楊栴」
聞こえてきた声を頼りに、森の中を歩く。やがて目の前が開け──そこに、玉鼎真人が立っていた。張り出した崖の上から、眼下を見つめている。
「蛍ですか?」
「うむ、下にな。だが、あの色は青白くはないような……」
「だとすると、太公望のお眼鏡には適いませんね」
「ああ」
玉鼎真人の横に並び、楊栴も崖の下を見下ろす。玉鼎真人の言うとおり、小さな光がぽつぽつと浮かんでいたが、そこに青味は見えなかった。
「他を探しましょう、師匠。もしかしたら、太公望師叔が見つけているかもしれません。……ものすごい熱意でしたし」
「そうだな……」
玉鼎真人の袖を引いて、促してみる。頷いたのを確認して、楊栴がきびすを返したときだった。
「……え?」
ぐらりと足元が揺れ、身体の均衡が崩れたのは。
「…………ッ!?」
「楊栴!!」
地面にヒビが入る嫌な音が、辺りに響く。すぐにわかった。よりによって、こんなところで師匠の不運が発動したのだ。
咄嗟に目を瞑った途端に、全身があたたかさで包まれる。次の瞬間襲ってきた落下の衝撃は、覚悟していたよりもはるかに小さかった。
「し、師匠!?」
「……大丈夫か、楊栴」
玉鼎真人が楊栴を抱き寄せ、衝撃から庇ってくれたからだった。慌てて目を開けると案の定、楊栴は玉鼎真人に抱きしめられたまま、その上に乗って完全に潰してしまう状態になっていた。
「す……すみません。私は大丈夫です……けど、師匠、怪我は……?」
「私は慣れている」
「……で、ですが」
慣れていると言われても、このままずっと潰したまま、というわけにもいかない。
ただ、玉鼎真人の腕の力は意外と強く、しかもすぐに楊栴の身体を放してくれる意思はなさそうだった。なんとなく、気恥ずかしい気分に陥りつつ──そして、安堵感も抱く。
楊栴には、この腕に何度も抱き留められてもらった記憶がある。
思い出したくもない日々から、楊栴を救ってくれたのはこの腕だ。その腕の中にいれば、安心する。まるで、条件反射のように。
──そのとき、視界の隅をほのかな光がかすめた。
「あ……」
しかも冴え冴えと美しい、青白い光を放っている。手など、伸びない。捕まえる気も起こらない。
それほど、きれいだった。
「師匠、師匠、見てください! 蛍です!!」
「……ああ、そうだな」
「なんて、きれい……!」
玉鼎真人が、優しく笑って楊栴の頭を撫でる。その、まるではしゃぐ子どもをなだめるような仕草に苦言を呈しかけて、楊栴ははたと気づいた。
子ども扱いされたことに、へそを曲げている場合ではない。
今の、奇形種の蛍を見つけた楊栴の反応こそが、まさにはしゃいでいる子ども、そのものだ。
「……うう。いつまでも子どもですみません……もう、とっくの昔に大人になっていなければならないのに」
結局は玉鼎真人に抱きかかえられたまま、しょんぼりとうなだれることになる。だが、玉鼎真人は穏やかに微笑むだけだ。
「お前が急に大人になって、私の元からいなくなってしまったら……寂しいな」
楊栴の頭を撫で続けるその手は、いつもどおり、優しかった。
「太公望師叔、どこですか?」
「……ん? なんだ、楊栴か」
そして、太公望は思ったよりも早く見つかった。それに、予想よりも落ち着いている。
──と、いうことは。
「奇形種は見つかっていないと、そういうことですね」
自然と導き出される答えを口にしてみたら、太公望が眉をひそめた。ただ、それは機嫌を損ねたというよりは、どこか拗ねているように見える。
「悪かったな」
「いえ、悪くはありませんが」
もしかしたら、先刻見せた大人げない態度を思い返して、照れているのだろうか。
(いや、太公望にそんな可愛げがあるわけが……)
つい頭に浮かんだそんなツッコミを、楊栴はあわてて振り払った。そういう問題ではない。
「……青白い光を放つ蛍、ですか。私は今まで一度も見たことがないのですが、どこにいるのでしょうね」
「実在するのは確かなんだ。幻の蛍、と言われ続けてはいるがな。……だが、やはり先刻見たような気がするのは、幻だったのか……」
「師叔?」
ふと、太公望が遠くを見遣る。先刻まで地面近くを睨みながら蛍の光を探していたはずのその目には、どこか郷愁を思わせる色が浮かんでいた。
「……師叔は、幻の蛍を見たことがあるんですか?」
「はるか昔に、一度な。それこそ、俺がまだ子どもの頃……死の雨が降り出す前の話だ」
尋ねてみれば、意外にも素直に答えが返ってくる。そのことに、楊栴は少し驚いた。
「近所に住んでいた同じ年頃の子どもたちと一緒に、蛍を見に行ってな。たまたま、見つけたんだ。小さな……本当に小さな、青白い光だった。だが、この世のものとは思えないほどにきれいだったことは覚えている」
「子どもたちだけで、蛍を見に行ったんですか?」
「ああ、そうだな。あの頃はまだ、さほど妖怪の数も多くなかった。集落近くの森であれば、子どもたちだけで足を踏み入れても問題などなかったからな」
「……平和だったと、そういうことですか。まだ、朝歌に死の雨が降ることもなく……」
「ああ、そういうことだ。──俺にとってあの幻の蛍は、平和の証なのかもしれないな」
「…………」
今、いくら人里に近いからといって、森に子どもたちだけで足を踏み入れるようなことは、まずない。
死の雨が降っていない西岐でも、そうだ。雨に苦しめられている朝歌では、それこそありえないだろう。
(……太公望は、誰よりも人が人として幸せに生きることができる世界を望んでいる)
それは、楊栴が前からずっと思っていたことだ。
金が絡むと少し目の色が変わるが、太公望が軍費の充実を望むのも、人の幸せを求めるから。それを、今日改めて強く感じる。
「……師叔、もしかして熱でもあるんですか?」
──なのだが、それがわかっていても、楊栴は決して素直ではなかった。
「……なんだと?」
「師叔が殊勝だなんて、おかしいです。大丈夫ですか? 薬師を呼んだほうがいいですか。いえ、それより早く城に戻ったほうが……」
「お前な……」
たとえ思っていても日頃は間違っても言わないようなことを、太公望が口にしたことを気にしてしまう。もしかして、本調子でないから弱気になっているのかと、そんなことを思ってしまったわけだ。
「はぁ……お前が俺のことをどう思っているのか、よくわかった」
太公望が、これ見よがしにため息をつく。
「?」
もちろん、楊栴にその真意は伝わらなかった。
足早に天化を追いかけると、すぐに探していた背中は見つかった。きょろきょろと、辺りに注意を払いながら歩いている。
「待って、天化」
楊栴が後ろから声をかけると、天化が弾かれたようにして振り向いた。ぱちぱちと、不思議そうに瞬きをしている。
その姿は、不思議と楊栴を和ませた。
「あ、あれ、楊栴さん?」
「天化を追いかけてきたんだ。早く、蛍を追いかけよう。こっちだと、森にある湖のほうに行ったのかな」
「は、はい。その可能性は高いですよね。水辺ですし」
「じゃあ、急ごう」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、楊栴さん!」
あたふたしている天化を追い越して、楊栴はさっさと歩き出す。
あわてて追いかけてくるその姿が視界の隅に引っかかって、またしても少し楽しくなった。
「……わあ」
「きれい──です、ね」
「うん……そうだね」
──そして。
目的地だった森の湖で、楊栴と天化は想像もしていなかった美しい光景を目の当たりにすることとなる。
蛍は、きれいな水辺を好む生き物だ。水が汚れてしまえば、生きていけない。この湖は森の奥まったところに位置していて、人が足を運ぶことそのものが少ないからだろうか。
湖のほとりに青白い光がいくつか、ふわふわと舞っていた。まるで、楊栴と天化を待っていてくれたかのように。
「……太公望には、秘密にしておこうか」
楊栴が小声で呟くと、隣で天化が小さくうなずいてみせる。どうやら、意見は同じのようだ。
「そうです、ね。……この美しい景色は、このままにしておくべきだと思います」
「うん……」
「それに、せっかく楊栴さんと幻の蛍を見られたわけですから……これを誰かに話してしまうのは、もったいない気がしますし」
「なにを言ってるんだか」
「あはは、帰りますか」
「だね」
だから、楊栴はその景色を心に焼きつけることにした。また、この光景が見られるとは限らない。
──天化と一緒に見られるとも、限らない。 「……太公望師叔の機嫌は、悪くなりそうですけど」
ぽつりと、天化が呟く。それには、苦笑しか返せそうもない。
「それは……まあ、しょうがない」
「ですよね」
ただ、機嫌の悪い太公望の相手をするのは、楊栴だけというわけではない。天化も、玉鼎真人も、姫発も皆、被害者だ。
「そこは、あきらめよう」
「了解しました」
天化も、そう思ったのかもしれない。自然と、目線が合う。
そのまま、顔を見合わせて笑いあった。
世継ぎの王子を暗くなってからひとりで出歩かせるなど、あってはならない。そもそも、なぜ姫発は他の誰かについていかず、ひとりでふらふら追いかけていってしまったのか。
「さっさと止めればよかった」
つい呆然と見送ってしまった自分を反省しつつ、楊栴は姫発が去って行った方へと足を向ける。足早に街道を進んでいくと、道からほんの少し離れたあたり、川の支流が流れ込んでいるところでようやく姫発に追いつけた。
「姫発!!」
「あ、楊栴! どうだい、ここなら蛍もいそうじゃないかな? けっこう目の付け所はよかったと思うんだけど」
名前を呼ばれて振り返った姫発は、にこにことなんの屈託も内笑顔を浮かべている。悪気も反省の色も、どこにも見られない。
楊栴の語気が荒い理由すら、理解してはいなさそうだった。
「どうだい、じゃありません! ひとりで行動するのはやめてくださいと、あれほど言いましたよね……!?」
「あ」
開口一番で楊栴が説教をすると、さっと姫発の顔つきが変わる。わかりやすく、「まずい」
と言いたげな表情になった。
──忘れていただけで、一応自覚はあったようだ。
「確かに、事の発端はお金に目がくらんだ太公望です。ですが、その太公望もあなたに単独で行動しろとは言わなかったはずですよね……?」
「ご、ごめん! でも、楊栴と一緒に蛍を見たかったんだよ……!」
「なにを言ってるんですか。私がこうやって追いかけてこなかったら、姫発はひとりだったでしょう。世継ぎの王子だというのに、護衛ひとりつけずに……」
「え、そんなことないよ。だって、楊栴が追いかけてきてくれるって思ってたし」
「…………」
胸を張ってそんなことを言われても、困ってしまうというものだ。なんと言っていいかわからず、楊栴はつい姫発から目を逸らす。
──そのとき、だった。
「あ」
ふわり、と青白い光が視界をよぎる。その光は吸い寄せられるようにして、とある場所に止まった。
……楊栴がつけていた、髪飾りの花の中に。
「わ……あああ」
「…………」
なるべく揺らさないようにして、楊栴はそっと髪飾りを取った。
動かされても、蛍はおとなしく花の中にいる。青白い光が、中心部から髪飾りを照らしていた。
──とても、幻想的な光景だ。
「……きれい、ですね」
「うん、ほんとにきれいだよ。楊栴の髪飾りが気に入ったのかな? おとなしいね」
「はい」
「えへへ……楊栴と一緒にこんな神秘的な光景が見られるなんて、嬉しいな」
「そう、ですね。私も、嬉しいです」
「えっ、ほんとに? あはは、だとしたらもっともっと嬉しいな!」
「……ありがとうございます」
自分も嬉しい、という楊栴の本音は口に出されなかったけれど、きっとそれは姫発にも伝わったのだろう。
そのまましばらく、ふたりは蛍を見つめ続けた。
──太公望たちに見つかりそうになってあわてて蛍を放した、その瞬間まで。
「昔は、朝歌にも蛍がいたらしいですよ」
その日、そんなことを言い出したのは、天化だった。西岐ではそろそろ蛍が見られる季節だと、そんなことを話していたときのことだ。
「そうなんだ?」
「まだ、死の雨が降ってなかった頃だそうですね。きれいな川が流れていて、そのほとりに蛍がたくさん集まっていたそうです。ただ、今は……ちょっと」
「そう、だね」
雨が降れば、虫は飛ばない。死の雨が降り続ける朝歌に、蛍が現れることはない。
「……早く、朝歌が元の美しい場所に戻るといいね」
「そうですね。そのためには、オレたちががんばらないと」
「うん」
楊栴にも、少しだけ朝歌のあたりをさまよった記憶はある。あの頃は人間界の地理などまったく理解してはいなかったが、おそらく間違ってはいないはずだ。
そう、地理になど考えをめぐらせるような余裕はなかった。ただの、ひとつも。
(……いや、やめよう)
天化に気づかれないよう、楊栴は首を振る。当時のことは、あまり思い出したくない。
今、楊栴はこの地で必死に生きようとしている人間たちを、愛しいと思っている。出来る限りの手助けをしたいと思っている。
──だから、思い出したくない過去を蒸し返す必要など、ないのだ。
「蛍か……知っているか、楊栴、天化」
「?」
そこに口を挟んできたのは、聞き慣れた声だった。
「太公望師叔?」
振り返れば、そこでは腕を組んだ太公望が、なにやら真顔で考え込んでいる。
「どうしたんですか、師叔。えらい真剣な顔、してますけど」
楊栴の横に並んで太公望へと視線を向けた天化の表情は、ほんの少し不安そうだ。西岐の軍師である太公望が真顔で考え込む姿を目の当たりにしてしまって、いろいろと縁起でも無い想像をしてしまったのかもしれない。
だが、実際太公望の表情は、楊栴でも少々不安になりかねないほど、真剣だった。
「奇形種と呼ばれる、青白く光る蛍がいるんだ」
「奇形種……ですか?」
「ああ」
一体、その蛍がどうしたのか。まさかとは思うが、その奇形種の蛍は、疫病の前触れだったりするのだろうか。いや、それはさすがにどうなのか。
咄嗟にそこまで考えて、楊栴は慌ててその思考を振り払う。思い込みは、いけない。師匠である玉鼎真人にも、何度も諭されたことだ。
「その青白く光る蛍が、どうかしたのです?」
そう自分に言い聞かせながら、楊栴は先を促す。
──なぜか、太公望の目がきらりと輝いた。
「よくぞ聞いてくれた。それは、幻の蛍と呼ばれていてな。物好きな金持ち連中に、高く売れるんだ。しかも、その奇形種の研究をしている機関が多額の賞金をかけていてな。持ち込めば、一攫千金も夢ではない。……ふふふ」
「…………」
どうやら、楊栴の懸念はまったくの取り越し苦労だったようだ。ため息しか出ない。
「あ、あのですねえ」
「あれえー、みんな集まってどうしたの?」
「……なにかあったのか?」
楊栴の隣で、天化も呆れている。話している声を聞きつけたのかいつの間にか集まってきていた姫発と玉鼎真人も、そんな天化と楊栴の様子を不思議そうに眺めていた。
もちろん、そんな反応に影響され、決意を揺らがせる太公望ではない。 「さあ、俺の……いや、西岐の軍費を充実させるために、奇形種蛍狩りに励むぞ。皆のもの、ついてこい!」
逆に、張り切りだした。そして、天化から事情を聞いてようやく事態を把握した姫発が、太公望の宣言を耳にして顔色を変える。
「ええっ、そんな! ほっ、蛍を軍費のために売るなんて、どんなひどいこと僕にはできないよ!」
「では姫発は、軍費のために西岐の民たちに更なる負担を強いるほうがいいというのか?」
「え……ど、どういうことだい?」
「軍費が足りないのは揺るぎない事実だ。軍とは人の集団、人が集まり動けばどうしたって金がかかる。蛍を売って赤字を埋めることが不可能なら、その分を西岐の民に負担してもらうしかない。増税か……」
「え、ええええ……そ、それは」
「そんなことは出来ないだろう? それに、売り先は研究機関だ。奇形種の蛍は個体数が少なく、絶滅に瀕している。売って保護することで、奇形種が生き残る可能性も高まるわけだ」
「そ、そうなんだね! それなら……」
そして、気づけば完全に太公望の味方になっていた。
「……あれ、もしかして騙されてませんか?」
「うん……」
天化が目を瞬かせ、楊栴が肩をすくめる。とはいえ、効果的な反論方法など見つからない。
楊栴が助けを求めようとして振り返ると、目が合った玉鼎真人も肩をすくめた。
「だが、太公望が言うように軍費はどうしても必要だ。とはいえ、民にこれ以上の税の負担をかけるわけにもいかない。だとすれば、他に方法はないだろう。それに、ああなってしまった太公望を止める術は誰も持っていない」
「ですね……」
しかも、発言が的を射ている。
「私たちがやるしかありませんね」
「ああ」
というわけで、急遽青白い光を放つ奇形種蛍の捕獲作戦が決行されることになった。
「──なんだけど……」
蛍探しに出てきた川辺で、楊栴は深いため息をついた。
幸い、すぐに蛍の光らしきものは見つかったのだが、そこからがまずかった。なにしろ、そこにいた楊栴以外の全員が、その光を追いかけてまったく違う方向に走り出したからだ。中でも、目がすっかり「金」
の文字と化していた太公望がこの上なく不安だった。
全員そのまま放置しておく、という選択肢は間違っても選べない。
「誰を追いかければいいんだ……?」
この上ない、難問だ。
▼師匠を追いかける
とりあえず、玉鼎真人を追いかけることにした。夜の森の中で玉鼎真人をひとりにしておくのは、不安すぎる。なにしろ、あの不運っぷりだ。なにが起こってもおかしくない。
……そんなことを考えていたら、ますます不安になってしまった。
「師匠! どこですか?」
「……ここだ、楊栴」
聞こえてきた声を頼りに、森の中を歩く。やがて目の前が開け──そこに、玉鼎真人が立っていた。張り出した崖の上から、眼下を見つめている。
「蛍ですか?」
「うむ、下にな。だが、あの色は青白くはないような……」
「だとすると、太公望のお眼鏡には適いませんね」
「ああ」
玉鼎真人の横に並び、楊栴も崖の下を見下ろす。玉鼎真人の言うとおり、小さな光がぽつぽつと浮かんでいたが、そこに青味は見えなかった。
「他を探しましょう、師匠。もしかしたら、太公望師叔が見つけているかもしれません。……ものすごい熱意でしたし」
「そうだな……」
玉鼎真人の袖を引いて、促してみる。頷いたのを確認して、楊栴がきびすを返したときだった。
「……え?」
ぐらりと足元が揺れ、身体の均衡が崩れたのは。
「…………ッ!?」
「楊栴!!」
地面にヒビが入る嫌な音が、辺りに響く。すぐにわかった。よりによって、こんなところで師匠の不運が発動したのだ。
咄嗟に目を瞑った途端に、全身があたたかさで包まれる。次の瞬間襲ってきた落下の衝撃は、覚悟していたよりもはるかに小さかった。
「し、師匠!?」
「……大丈夫か、楊栴」
玉鼎真人が楊栴を抱き寄せ、衝撃から庇ってくれたからだった。慌てて目を開けると案の定、楊栴は玉鼎真人に抱きしめられたまま、その上に乗って完全に潰してしまう状態になっていた。
「す……すみません。私は大丈夫です……けど、師匠、怪我は……?」
「私は慣れている」
「……で、ですが」
慣れていると言われても、このままずっと潰したまま、というわけにもいかない。
ただ、玉鼎真人の腕の力は意外と強く、しかもすぐに楊栴の身体を放してくれる意思はなさそうだった。なんとなく、気恥ずかしい気分に陥りつつ──そして、安堵感も抱く。
楊栴には、この腕に何度も抱き留められてもらった記憶がある。
思い出したくもない日々から、楊栴を救ってくれたのはこの腕だ。その腕の中にいれば、安心する。まるで、条件反射のように。
──そのとき、視界の隅をほのかな光がかすめた。
「あ……」
しかも冴え冴えと美しい、青白い光を放っている。手など、伸びない。捕まえる気も起こらない。
それほど、きれいだった。
「師匠、師匠、見てください! 蛍です!!」
「……ああ、そうだな」
「なんて、きれい……!」
玉鼎真人が、優しく笑って楊栴の頭を撫でる。その、まるではしゃぐ子どもをなだめるような仕草に苦言を呈しかけて、楊栴ははたと気づいた。
子ども扱いされたことに、へそを曲げている場合ではない。
今の、奇形種の蛍を見つけた楊栴の反応こそが、まさにはしゃいでいる子ども、そのものだ。
「……うう。いつまでも子どもですみません……もう、とっくの昔に大人になっていなければならないのに」
結局は玉鼎真人に抱きかかえられたまま、しょんぼりとうなだれることになる。だが、玉鼎真人は穏やかに微笑むだけだ。
「お前が急に大人になって、私の元からいなくなってしまったら……寂しいな」
楊栴の頭を撫で続けるその手は、いつもどおり、優しかった。
▼太公望師叔を追いかける
とりあえず、蛍というよりは金に目がくらんでいた太公望を追いかけることにした。太公望の性格的に無茶はしないだろうが、どうしても懸念が楊栴の頭から離れてくれなかったのだ。「太公望師叔、どこですか?」
「……ん? なんだ、楊栴か」
そして、太公望は思ったよりも早く見つかった。それに、予想よりも落ち着いている。
──と、いうことは。
「奇形種は見つかっていないと、そういうことですね」
自然と導き出される答えを口にしてみたら、太公望が眉をひそめた。ただ、それは機嫌を損ねたというよりは、どこか拗ねているように見える。
「悪かったな」
「いえ、悪くはありませんが」
もしかしたら、先刻見せた大人げない態度を思い返して、照れているのだろうか。
(いや、太公望にそんな可愛げがあるわけが……)
つい頭に浮かんだそんなツッコミを、楊栴はあわてて振り払った。そういう問題ではない。
「……青白い光を放つ蛍、ですか。私は今まで一度も見たことがないのですが、どこにいるのでしょうね」
「実在するのは確かなんだ。幻の蛍、と言われ続けてはいるがな。……だが、やはり先刻見たような気がするのは、幻だったのか……」
「師叔?」
ふと、太公望が遠くを見遣る。先刻まで地面近くを睨みながら蛍の光を探していたはずのその目には、どこか郷愁を思わせる色が浮かんでいた。
「……師叔は、幻の蛍を見たことがあるんですか?」
「はるか昔に、一度な。それこそ、俺がまだ子どもの頃……死の雨が降り出す前の話だ」
尋ねてみれば、意外にも素直に答えが返ってくる。そのことに、楊栴は少し驚いた。
「近所に住んでいた同じ年頃の子どもたちと一緒に、蛍を見に行ってな。たまたま、見つけたんだ。小さな……本当に小さな、青白い光だった。だが、この世のものとは思えないほどにきれいだったことは覚えている」
「子どもたちだけで、蛍を見に行ったんですか?」
「ああ、そうだな。あの頃はまだ、さほど妖怪の数も多くなかった。集落近くの森であれば、子どもたちだけで足を踏み入れても問題などなかったからな」
「……平和だったと、そういうことですか。まだ、朝歌に死の雨が降ることもなく……」
「ああ、そういうことだ。──俺にとってあの幻の蛍は、平和の証なのかもしれないな」
「…………」
今、いくら人里に近いからといって、森に子どもたちだけで足を踏み入れるようなことは、まずない。
死の雨が降っていない西岐でも、そうだ。雨に苦しめられている朝歌では、それこそありえないだろう。
(……太公望は、誰よりも人が人として幸せに生きることができる世界を望んでいる)
それは、楊栴が前からずっと思っていたことだ。
金が絡むと少し目の色が変わるが、太公望が軍費の充実を望むのも、人の幸せを求めるから。それを、今日改めて強く感じる。
「……師叔、もしかして熱でもあるんですか?」
──なのだが、それがわかっていても、楊栴は決して素直ではなかった。
「……なんだと?」
「師叔が殊勝だなんて、おかしいです。大丈夫ですか? 薬師を呼んだほうがいいですか。いえ、それより早く城に戻ったほうが……」
「お前な……」
たとえ思っていても日頃は間違っても言わないようなことを、太公望が口にしたことを気にしてしまう。もしかして、本調子でないから弱気になっているのかと、そんなことを思ってしまったわけだ。
「はぁ……お前が俺のことをどう思っているのか、よくわかった」
太公望が、これ見よがしにため息をつく。
「?」
もちろん、楊栴にその真意は伝わらなかった。
▼天化を追いかける
特に心配はなさそうだとは思ったが、楊栴はなんとなく天化を追いかけることにした。逆に、いちばん安心出来そうだったかもしれない。うかつに他の人たちを追いかけて、頭を抱えたくなるようなやっかいごとに首を突っ込みたくなかった。なにしろ今回の蛍捜索は、妖怪退治でもなんでもないからだ。足早に天化を追いかけると、すぐに探していた背中は見つかった。きょろきょろと、辺りに注意を払いながら歩いている。
「待って、天化」
楊栴が後ろから声をかけると、天化が弾かれたようにして振り向いた。ぱちぱちと、不思議そうに瞬きをしている。
その姿は、不思議と楊栴を和ませた。
「あ、あれ、楊栴さん?」
「天化を追いかけてきたんだ。早く、蛍を追いかけよう。こっちだと、森にある湖のほうに行ったのかな」
「は、はい。その可能性は高いですよね。水辺ですし」
「じゃあ、急ごう」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、楊栴さん!」
あたふたしている天化を追い越して、楊栴はさっさと歩き出す。
あわてて追いかけてくるその姿が視界の隅に引っかかって、またしても少し楽しくなった。
「……わあ」
「きれい──です、ね」
「うん……そうだね」
──そして。
目的地だった森の湖で、楊栴と天化は想像もしていなかった美しい光景を目の当たりにすることとなる。
蛍は、きれいな水辺を好む生き物だ。水が汚れてしまえば、生きていけない。この湖は森の奥まったところに位置していて、人が足を運ぶことそのものが少ないからだろうか。
湖のほとりに青白い光がいくつか、ふわふわと舞っていた。まるで、楊栴と天化を待っていてくれたかのように。
「……太公望には、秘密にしておこうか」
楊栴が小声で呟くと、隣で天化が小さくうなずいてみせる。どうやら、意見は同じのようだ。
「そうです、ね。……この美しい景色は、このままにしておくべきだと思います」
「うん……」
「それに、せっかく楊栴さんと幻の蛍を見られたわけですから……これを誰かに話してしまうのは、もったいない気がしますし」
「なにを言ってるんだか」
「あはは、帰りますか」
「だね」
だから、楊栴はその景色を心に焼きつけることにした。また、この光景が見られるとは限らない。
──天化と一緒に見られるとも、限らない。 「……太公望師叔の機嫌は、悪くなりそうですけど」
ぽつりと、天化が呟く。それには、苦笑しか返せそうもない。
「それは……まあ、しょうがない」
「ですよね」
ただ、機嫌の悪い太公望の相手をするのは、楊栴だけというわけではない。天化も、玉鼎真人も、姫発も皆、被害者だ。
「そこは、あきらめよう」
「了解しました」
天化も、そう思ったのかもしれない。自然と、目線が合う。
そのまま、顔を見合わせて笑いあった。
▼姫発を追いかける
「……なにはともあれ、姫発だな」世継ぎの王子を暗くなってからひとりで出歩かせるなど、あってはならない。そもそも、なぜ姫発は他の誰かについていかず、ひとりでふらふら追いかけていってしまったのか。
「さっさと止めればよかった」
つい呆然と見送ってしまった自分を反省しつつ、楊栴は姫発が去って行った方へと足を向ける。足早に街道を進んでいくと、道からほんの少し離れたあたり、川の支流が流れ込んでいるところでようやく姫発に追いつけた。
「姫発!!」
「あ、楊栴! どうだい、ここなら蛍もいそうじゃないかな? けっこう目の付け所はよかったと思うんだけど」
名前を呼ばれて振り返った姫発は、にこにことなんの屈託も内笑顔を浮かべている。悪気も反省の色も、どこにも見られない。
楊栴の語気が荒い理由すら、理解してはいなさそうだった。
「どうだい、じゃありません! ひとりで行動するのはやめてくださいと、あれほど言いましたよね……!?」
「あ」
開口一番で楊栴が説教をすると、さっと姫発の顔つきが変わる。わかりやすく、「まずい」
と言いたげな表情になった。
──忘れていただけで、一応自覚はあったようだ。
「確かに、事の発端はお金に目がくらんだ太公望です。ですが、その太公望もあなたに単独で行動しろとは言わなかったはずですよね……?」
「ご、ごめん! でも、楊栴と一緒に蛍を見たかったんだよ……!」
「なにを言ってるんですか。私がこうやって追いかけてこなかったら、姫発はひとりだったでしょう。世継ぎの王子だというのに、護衛ひとりつけずに……」
「え、そんなことないよ。だって、楊栴が追いかけてきてくれるって思ってたし」
「…………」
胸を張ってそんなことを言われても、困ってしまうというものだ。なんと言っていいかわからず、楊栴はつい姫発から目を逸らす。
──そのとき、だった。
「あ」
ふわり、と青白い光が視界をよぎる。その光は吸い寄せられるようにして、とある場所に止まった。
……楊栴がつけていた、髪飾りの花の中に。
「わ……あああ」
「…………」
なるべく揺らさないようにして、楊栴はそっと髪飾りを取った。
動かされても、蛍はおとなしく花の中にいる。青白い光が、中心部から髪飾りを照らしていた。
──とても、幻想的な光景だ。
「……きれい、ですね」
「うん、ほんとにきれいだよ。楊栴の髪飾りが気に入ったのかな? おとなしいね」
「はい」
「えへへ……楊栴と一緒にこんな神秘的な光景が見られるなんて、嬉しいな」
「そう、ですね。私も、嬉しいです」
「えっ、ほんとに? あはは、だとしたらもっともっと嬉しいな!」
「……ありがとうございます」
自分も嬉しい、という楊栴の本音は口に出されなかったけれど、きっとそれは姫発にも伝わったのだろう。
そのまましばらく、ふたりは蛍を見つめ続けた。
──太公望たちに見つかりそうになってあわてて蛍を放した、その瞬間まで。