タイトル:黎明、来る月
試衛館の面々を含む、浪士組二百三十四名が京へと辿り着いたのは、江戸を発ってから約半月後のことだった。
近藤や土方達試衛館一派は、壬生村の郷士・八木源之丞宅で寝起きすることになった。
「あぁ〜、さっぱりした! ったく、汗と埃と垢の匂いで窒息しちまうかと思ったぜ!」
どうやら到着して早々、井戸で汗を流してきたらしい。永倉新八が、解放感に満ちた表情で言う。
半月の間、ゆっくり風呂に浸かる間もなく歩き続けたのだ。身体にまとわりつく脂や垢の感触は、耐えがたいほどになっていた。
「左之も平助も、水が冷たくならねえうちに汗流してきた方がいいぜ。
濡れたまま放ったらかした雑巾みてえな匂いをぷんぷんさせてると、京の人達に嫌われちまうぞ」
「そうだな。んじゃ、さっさと済ませてくるか……」
板張りの広間の隅に腰を下ろしていた原田左之助は、そう言って立ち上がろうとするが、藤堂平助は沈んだ様子でうなだれたままだ。
「どうしたんだよ? 平助。もしかして、腹でも痛えのか?」
原田が気を遣って、そう声をかけると――。
「なあ、新八っつぁん、左之さん。……あいつ、大丈夫なのかな?」
ようやく顔を上げた藤堂が、心配そうな表情を浮かべながらそう呟く。
「あいつ? ってのは――」
「ほら、あいつだよ。芹沢さんが、ここに来る途中で拾ったって言ってた……」
藤堂の言葉で、他の二人もようやく思い出したらしい。
京に向かう途中――大津に着いた辺りで、「小用を足す」と告げて列を離れた芹沢鴨が、薄汚れた風体の一人の少年を連れて来たのだ。
少年は数日間ろくな食事を摂っていなかったらしく、京に着くまでの間も、ずっと目を覚ますことはなかった。
今頃は芹沢一派と共に、八木邸の隣にある前川邸にいるはずだが……。
「……あいつ、どうしてあんな所で行き倒れてたんだろうな?」
藤堂が不思議そうに呟くが、永倉はがりがりと頭を掻きながら、さして興味なさそうに答える。
「さあな。京に来る途中で追いはぎにでも遭ったんじゃねえかって、芹沢さんは言ってたが」
芹沢の名が出た瞬間、藤堂は不服そうに眉をしかめた。
「……新八っつぁんは、芹沢さんの言葉が信用できると思ってんのか?
追いはぎに遭って倒れてたあいつを助けてやったんじゃなくて、芹沢さんが追いはぎしたんじゃねえの? あいつから」
「何の為に、んな面倒なことするってんだよ。そもそもあいつ、金目の物なんて持ってそうになかっただろうが」
「そりゃ、そうだけど――芹沢さんが、純粋な親切心で人を拾ってやるなんて、到底思えねえんだけど……」
藤堂が納得いかない様子で言い募ると、永倉は眉根をしかめ、ごろんと床に寝転がりながら告げる。
「……本人がいねえ所で陰口叩くのはやめろよ、みっともねえ。
確かにあの人は困ったところもあるが、根っからの悪人ってわけじゃねえだろ」
永倉の流派は、芹沢と同門の神道無念流だ。そのせいもあり、他の試衛館の面々とは芹沢との距離感が違う。
問題がある人物だということは認識しているものの――それでも、目の前で陰口を叩かれると、不愉快な気分になるのだろう。
「いや、オレは別に陰口叩いたわけじゃなくて――」
永倉と藤堂の間に、険悪な空気が流れかけたが……。
「……さて、ちょっくら井戸で汗流してこようぜ、平助。おまえ、雨の日の野良犬みてえな匂いがするぞ」
原田がそんなことを言いながら、平助の腕をつかんで立ち上がらせようとする。
「い、いいよ! 水浴びなんてする気分じゃねえし――」
平助はそう言って原田の腕を振り払おうとするが、原田は応じようとしない。
「おまえがそういう気分じゃなくても、近くにいる奴が迷惑するんだって。いいから、来い」
「何なんだよ……! そんなに言うほどの匂いなんてしねえだろ、オレ!」
だが原田は藤堂の言葉をまともに聞こうとせず、半ば強引に中庭へと連れ出してしまった。
井戸に向かう途中、縁側でぼんやりと空を見上げている沖田総司の姿が目に入る。
「総司、こんな所で何やってんだ?」
藤堂がそう声をかけるが、沖田は彼を一瞥しようともせずに答えた。
「見ての通りだよ。ボーッとしてただけ」
「珍しいな。ようやく京に来たんだから、気合い入れて剣の稽古でもしてるんじゃねえかって思ったんだが」
「するわけないじゃない。僕とまともに打ち合えるのって、新八さんぐらいだし。新八さんと打ち合ったら、多分、無事じゃ済まないだろうし。
京に着いた早々どっちかが大怪我したら、土方さんや山南さんに叱られるのは目に見えてるしね」
「なるほど。ま、それが賢明だろうな」
原田はおかしそうに肩を揺すりながら、沖田の言葉に同意する。
「せめて、一君が一緒に来てくれてれば良かったのにな。一君となら互角に打ち合えるだろうし、総司も退屈せずに済むだろ?」
「まあ、そうだけど」
「……一君、どうしてるんだろうな? いきなり試衛館に来なくなって、連絡も取れなくなっちまって……」
藤堂は寂しそうに眉尻を下げながら言うが、沖田は、さして気にも留めない様子で答える。
「ま、いなくなった人のことをあれこれ考えてもしょうがないんじゃない?」
「いなくなった人って……総司、冷てえな。一君は、仲間じゃん」
「でも、今ここにはいないし、今どこで何をしてるかもわからないでしょ?」
「そうだけど……」
藤堂は、歯切れの悪い答えを返す。
沖田の言葉が正論だということはわかっていても、同意しきれない様子だ。
「……どうにもならないことを考えるのは、やめたら。そういうのは、考えるのが得意な人に任せた方がいいと思うけど」
「考えるのが得意な人って……」
そういえば、近藤や土方、山南の姿が見当たらない。
三人で集まって、今後のことについて話し合っているのだろうか。
「……結局、もらえるはずだった支度金が五十両から十両に減っちまって、
ツネさんとか周斎先生への仕送りはできなくなっちまったんだよな。話し合ってるとしたら、そのことか」
藤堂が、申し訳なさそうにうなだれながら、ぽつりと漏らす。
元々、試衛館の面々が浪士組として上洛することになったきっかけは、一人当たり五十両出るという支度金の話だった。
――もちろん近藤には、将軍の警護という名誉な役目を授かり、幕府に仕えたいという気持ちがあったのだが、
少なくともこの三人にとっては支度金の方が重要だったのだ。
食客として厄介になっていた彼らは、それだけの大金があれば傾きかけている試衛館を立て直すこともできるし、
近藤の家族を養うこともできると踏んでいたのだが――。
「ひでえ話だよな。まさか上洛間際になって、幕府のお偉いさんが【人が集まり過ぎちまったから、五十両なんて大金は出せねえ】なんて言い出すなんてよ」
原田が、苦々しい口調でそう言った。
上洛間際に言われてしまっては、さすがに参加を取りやめることなどできない。
そんなことをすれば「おまえ達の忠義心は偽りだったのか」と謗られるのがオチだ。
「……なあ、総司。土方さん達、オレのこと、色々言ってなかったか?」
藤堂が、不安げな声音で沖田に尋ねる。
だが沖田の方も、そんな問いに素直に答える男ではない。
「色々って、具体的には?」
「だから、その…………今回浪士組の話を持って来たのって、オレじゃん。
オレのせいでこんなことになっちまったって、怒ってるんじゃねえかと思って……」
藤堂の言葉を聞いて、沖田は失笑を漏らした。
そして――。
「平助は、自意識過剰だなあ。心配しなくても、周りの人は、君が思ってるほど君のことを気にしてないよ。
そうやって、何もかも自分のせいだって思い込むのは、やめたら」
せせら笑うような口調で、そう言ってのける。
「い、いや、でも実際、今回みてえなことになったのは……」
「だから、誰も君のせいだなんて言ってないってば」
うるさそうに藤堂の言葉を遮った後、沖田は夜空を見上げながらこう続ける。
「……世の中には、困ったことが起こった時、その原因を人のせいにする人と、
これからどうやって立ち直るかを考える人、二種類いるけど……土方さんは多分、後者でしょ。今頃は、どうやってこの状況をひっくり返すか、
どうすれば江戸にいる近藤さんの家族が充分暮らしていけるだけのお金を稼げるか――それだけを考えてるはずだよ」
沖田はそっけなく言った後、ぼそりと「あの人の、そういう所が気に入らないんだけどね」と付け加えた。
「そ、そっか……。確かに土方さんなら、そうだよな」
沖田の的を射た言葉に、藤堂はほっとした表情になる。
それを隣で聞いていた原田は、揶揄するような口ぶりで言った。
「総司の言う通りだぜ、平助。あれこれ悩んだって、いいことなんざねえからな。気楽に構えていこうぜ」
「おう、そうだな!」
原田の言葉に、藤堂はようやく白い歯を見せて笑ったのだった。
ほぼ同時刻。
近藤と土方、そして山南は、八木邸の一室で膝を突き合わせ、今後のことを話し合っていた。
「……とりあえず、無事に京に辿り着くことはできたが、肝心なのはこれからだよな」
土方の眉間には、深い皺が刻まれている。
浪士組の面々は約半月の旅を終え、今朝、京に着いたばかりだが――休む気には到底なれなかった。
「あの清河って野郎……どうも胡散臭えよな。そもそも今回の話を幕府側に持ちかけたのは、あいつなんだろ?」
土方が口にした【清河】というのは、浪士組結成の立役者――清河八郎という男のことだ。
山南は思案顔で、言葉を選びながら答える。
「……そのようですね」
「五十両の支度金が払えねえってことになった時、あいつ、何て言ってやがった?」
「確か……当初は、二千五百両の予算で五十名の人員を募る予定だったのが、三百名近くに増えてしまった為、
充分な支度金を払えなくなったとのことですが」
「そもそも、何を考えてそんなに増やしやがったんだろうな?」
「大は小を兼ねる……ということではないですか。あるいは、手違いが重なった、とか」
「そんな失敗をやらかすような男にゃ、到底見えなかったんだがな」
「人は見かけによらない、と言いますよ」
しれっとした様子で答える山南に、土方は苦笑いを漏らす。
「……まさか、本気でそう思ってるわけじゃねえよな? 山南さん」
すると彼は、いつもの、底の見えない笑みを浮かべながら小首を傾げた。
「さあ、どうでしょう?」
そんなつかみどころがない山南の返答に、小さく溜め息をついた後――土方は真剣な表情になり、独り言めいた言葉を漏らす。
「……人数が予定より増え過ぎちまったんなら、ふるいにかけりゃいいだけのことだ。剣の腕が達者な連中を選りすぐるとかよ。
……そうしなかったのは、どうしてなんだろうな」
土方の独り言めいた言葉に、山南はすぐには答えない。
目を閉じて、しばらく考え込んだ後……。
「……まあ、色々と事情があるということなのでしょう」
含みのある一言だけを、口にした。
土方は深い溜め息をつきながら、肩を落としてこう呟く。
「あれこれ悩んでもしょうがねえか。向こうが行動を起こすまで、ひとまず静観するしかねえな。
少なくともここにいる限り、メシと寝床に困ることはねえんだろうし」
「……そうですね」
山南も彼の言葉に頷いたが――近藤だけは、始終言葉を発しようとはせず、思い詰めた様子で畳表を見つめていた。
「……おい近藤さん、そんな顔すんなって。あんたのせいじゃねえんだからよ」
「しかし――皆と共に浪士組に参加することを決めたのは、この俺だ。
もし一文の金も受け取れぬということになれば、俺は、どう責任を取ればいいか……」
近藤は唇を噛みながら、弱気な言葉を口にする。
他の面々の前では、決してこんなことを言ったりはしないが――気心の知れた二人の前では、つい本音を漏らしてしまうようだ。
「平気だって言ってるだろ。あんたにゃ、俺が付いてるんだぜ。……失敗なんてことにゃならねえよ、絶対な」
すると山南が、口元をほころばせながら付け加える。
「……土方君だけではありませんよ。私も、近藤さんの為――皆の居場所を守る為なら、何でもするつもりです」
そう言った時だった。
襖が急に開いて――慌てた様子の井上源三郎が、部屋へと飛び込んでくる。
「勇さん、トシさん、山南さん、いるかい?」
「源さん? 一体どうしたんだ、そんなに慌てて……」
「浪士組の者は全員、新徳寺に集まるようにとお達しがあったようだよ。何でも、大事な話があるとかで――」
井上の言葉に、その場にいる全員が目をそばだてた。
「大事な話、だと……?」
その後、新徳寺で聞かされた清河の演説は、まさに青天の霹靂と呼ぶべきものだった。
黒の紋付袴を身につけ、威風堂々とした佇まいの清河は、本堂に集まった三百名近くの浪士達を睨みつけながら、こう言い放ったのだ。
「――我が浪士組は、近く上洛なさる将軍公を護衛し、都の治安を守るという名目でここまで参った。
しかし、これはあくまでも表向きのことであり、真の目的は攘夷の魁となり、日の本を荒らし回る異人を排除することである!」
清河の言葉に、場は騒然となった。
本堂に集められた試衛館一派――近藤や土方、山南は目をそばだてた。
そして、ようやく清河の真の目的を悟った土方は、舌打ちする。
(……なるほど、そういうことかよ。当初、五十人集める予定だった浪士を三百人近くまで増やしやがったのも、この為か。受け取る支度金の金額が一人当たり十両程度じゃ、禄とは呼べねえ――つまり、ここにいる全員、幕府にゃ恩義なんてねえってことになるもんな)
つまり清河は、金を出した幕府と、集まって来た浪士達の両方を相手に、一芝居打ったということになる。
清河は持っている紙を広げ、それを浪士達に見せつけながらこう告げた。
「我々は既に、【急ぎ江戸へと戻り、攘夷の為に働くべし】との朝命を賜っておる! 諸君らの殆どは、この日の本が異人に荒らされていくことを憂い、諸外国に対して弱腰な方策しか取れぬ幕府に歯痒さを感じていることと思う! 今こそ、諸君の力が必要な時なのだ!
これからはこの清河の下で、異人から神国日本を守る為、働いてもらいたい!」
清河がそう檄を飛ばすと、本堂のあちこちから「そうだ!」「その通りだ!」と応じる声が飛んでくる。
恐らく、清河の息がかかった浪士達を紛れ込ませ、こうして合いの手を入れさせているのだろう。
(ったく、とんだ詐欺師だぜ……)
土方は苦い思いで、熱弁を振るう清河を見つめていた。
本堂は異様な熱気に包まれており、清河の言葉に異を唱えることなど到底できない雰囲気だ。
「では、諸君らは速やかに宿所へと戻り、東下の準備をして欲しい。今夜は、これで解散――」
清河がそう言いかけた時だった。
「待て! さっきから黙っておれば、聞くに堪えぬ甘言巧言虚言の数々……。御公儀をたばかって人を集めたが、真の目的は別にあるだと?よくもまあ、そのような台詞を恥ずかしげもなくほざけるものだ」
突然立ち上がってそう叫んだのは――水戸天狗党出身の豪傑・芹沢鴨だった。
場の空気を物ともせずに言い放つ芹沢に、清河は憮然とした表情になる。
だが、すぐに気を取り直し――。
「芹沢殿、そなたは尊王の志篤い水戸の出身ではなかったか!
急ぎ江戸に戻れというのは、畏くも、朝廷から賜った命令でござるぞ! 朝命に背くつもりか!」
清河は凄まじい気迫と共に言い放つが、芹沢は、それを上回る迫力で怒鳴り返す。
「黙れ! 御公儀を騙って人を集めた挙げ句、自らの私兵として恥じる様子もないとは――貴様のような奸物が、
この芹沢鴨を従えられるとでも思っているのか!」
まるで、獅子が吼えたかのようだった。
芹沢の怒号の凄まじさに、清河は悔しげに歯噛みし、脂汗すら滲ませている。
――【役者が違う】というのは、こういうことを言うのだろう。
やがて近藤が、意を決した様子で立ち上がり、言い放つ。
「芹沢殿のおっしゃる通りです! 我々は、上様の警護の為にはるばる参ったのです。
上様が入洛なさる前に江戸に戻った後、万が一のことがあったら、あなたは責任を取れるのですか、清河殿!」
「く……!」
まさか近藤に反論されるとは思わなかったのか、清河は忌々しげに唇を噛んだ。
だが、芹沢一派や近藤一派を除く浪士達は、相変わらずで――。
「やかましい、引っ込め!」
「今、江戸で何が起こっているのか知らぬのか! 薩摩と英国の間で、戦が起こるかも知れぬのだぞ!」
清河に異を唱えた芹沢と近藤に、続けざまに罵声を浴びせる。
やがて芹沢は、その巨躯を翻し……。
「……新見、平間、戻るぞ。このような茶番に付き合ってはおれん」
そう言って取り巻きの面々を引き連れ、本堂を出て行ってしまった。
「ったく、予想はしてたが……とんでもねえことになっちまったな」
新徳寺を出た後、土方は肩を落としながら、疲労感のこもった溜め息を漏らす。
「まあ、あの清河という男の真意がようやく見えて、すっきりはしましたが……どうしたものでしょうね」
山南は感心半分、呆れ半分といった口ぶりで呟いた。
近藤は珍しく眉をしかめ、不機嫌さを隠そうともせずに唇を引き結んでいる。
「どうするもこうするもなかろう。我々は、上様の警護の為にはるばる京へ参ったのだぞ。
その役目を放り出して、江戸に帰ることなどできるものか」
人を欺いたり騙したりするということに縁がない近藤だけに、先程の清河の行状には、到底納得できない様子だった。
「俺も、近藤さんの意見に賛成だ。何もかもが、あの清河って奴の思い通りに進んじまうってのは気に食わねえ」
「……ですが、我々には何の後ろ盾もありません。清河のように、朝廷や幕府と話ができるほどの伝手はありませんし」
山南の淡々とした言葉に、土方は黙り込む。
彼の物言いは、正論だった。近藤にも土方にも山南にも――もちろん試衛館一派の他の面々にも、こういう時に頼れそうな伝手などない。
やがて山南が、独り言を呟くような調子で漏らす。
「……芹沢さんや彼の配下の人々も、京に残るようですが」
その名前を聞いた瞬間、土方は、苦い薬を無理矢理飲まされたように顔をしかめた。
「あの人達と協力し合おうってのか?」
【できるわけねえだろ】――そう言いたげな表情で、山南を睨みつける。
だが山南は、そんな視線など意に介さない様子で平然と答えた。
「もちろん、他に方法があるのなら、そちらの方法を採るに越したことはありませんが」
「……あんたは、平気なのか? ここに来る途中……本庄宿で何があったのか、忘れちまったわけじゃねえだろ?」
「ですから、他に方法があるのなら、そちらを選んでも構わないと言っています」
山南の言葉に、土方は再び黙り込む。
土方も、理解しているのだ。今の状況では、他に取るべき方法などないということを。
だが、それでも……。
「…………結論を出すのは、もう少し待ってくれねえか。もしかしたら、他に何かいい案が浮かぶかも知れねえ」
そう言いつつも、他の案など浮かびはしないだろうとも予感していた。
山南は、そんな土方を苦笑混じりに見つめた後……。
「わかりました。では私も、もう少し考えてみることにしましょう」
年が離れた弟の我が侭に付き合わされた時のような調子で、眉を開いてそう答える。
「……助かる」
土方も、ほっとした様子だった。
と、それまで二人のやり取りを見つめていた近藤が、ぼそりと呟く。
「トシ……。本庄宿の一件というのは、例の、あの時のこと……だよな?」
「他に何があるんだ?」
土方の言葉が、ひとりでに攻撃的になる。
近藤は、そんな彼の態度に戸惑いを見せる。
「あれは、もう済んだことだろう。俺にも落ち度はあったんだし、芹沢さんも俺ももう気にしてはいないんだ。
それを、いつまでも引きずるなんて――」
「あんたが水に流そうが、俺は絶対に忘れねえよ。たとえこの先何があっても、一生忘れねえさ」
その言葉と瞳に宿った憎悪に、近藤はそれ以上何も言えずに黙り込む。
山南は小さく息をついた後、二人にこう告げた。
「……そろそろ、戻りましょうか。これから、考えなければならないことは山ほどあるのですからね」
「そうだな……」
黄色い下弦の月が見守る中、三人は、既に眠りの中にある八木邸へと歩き出した。
試衛館一派よりも一足先に新徳寺から戻って来た芹沢は、靄に包まれた月を見上げながら、自室で煙草を吹かしていた。
頭に浮かんだのは、先程の新徳寺でのやり取りだ。
(まさか、あの者が清河に堂々と意見を述べるとはな……)
本堂にいた殆どの者が、あの場の雰囲気と清河の胆力に気圧され、物を言えない状態だったというのに。
(近藤勇、といったか。いかにも垢抜けん百姓といった風情だったが……それだけではなさそうだ)
そんなことを考えていると――。
「旦那様、あちらの部屋にお布団の用意ができました」
芹沢を慕って水戸からついて来た腹心・平間重助が、襖越しにそう声をかけてくる。
「……そうか」
ぞんざいな返事を返し、煙草の煙を肺の奥で吸ってから――ふと、あることを思い出す。
「そういえば、ここに来る途中で拾った野良犬がいるだろう。あやつはどうしている?」
「あのお若い方……ですか? まだ眠ってらっしゃいます。相当衰弱してらしたようで……」
「ふん……」
あんな所で行き倒れていたということは、恐らく、京に向かう途中だったのだろうが――。
(功名心に駆られ、後先考えずに故郷を飛び出したくちか。ああいった手合いが辿る道は、決まっている。
泥の中でのた打ち回った挙げ句にくたばるか、くたばる前に何もかも諦めて、地べたを這いずる虫のように生きていくかだ)
彼らのような人種が辿る道も、その行く末もわかりきっているのに、なぜ拾ったのか――どうしてあんな気まぐれを起こしたのか、
芹沢にもよくわからなかった。
ただ……。
(こうして京に来たのは、この芹沢鴨一世一代の博打だ)
そんなことを心の中で呟きながら、近藤勇、土方歳三、山南敬助――彼らの同志達、
そして京に来る途中、気まぐれを起こして拾ってみたあの野良犬のような少年の姿を頭に思い描く。
(せいぜい、束の間の退屈しのぎに付き合ってもらうぞ……)
鎌のように鋭い月を見上げながら、芹沢は一人、ほくそ笑むのだった。